メモ的になってしまった

 全くお前らは何なんだ。訳わかんねーよ。訳わかんないのは俺の言動であってね、よくわかんないのはよくわかんないんですね。冒頭からマジでこいつは頭おかしいんじゃないのか。どうしましたあ。つーか寝ろよマジで。パブロンを買ってきたわけですけどね、1回3錠ってナメてんのか。45錠も入ってるワーイと思ったらたった15回分であって1日に3回も飲めば5日しかもたないわけですな。自殺もできやしねえよこんなんじゃあ! 自殺するために買ったんじゃなくて風邪を治すために、いや、治すんじゃなくて鬱陶しい咳や鼻水という表面的な弊害をなくすために買ったのですがね、2000円近くて高いよ。薬高ぇ! ハイヤーメディスン! 絶対違ぇ。でも効果覿面! 鼻水ひいたかも。プラシーボかもしれないけどな。健康はいいことですな。健康のために何かするのは悪いことですけどね。でもこんなに不規則の生活をしていたら治るもんも治らんと思うねん。世の中のことを知れば知るほど、思ってたより事態は深刻で、自分の生活とは何の関係もないのに残念な気分になったりすして、気が沈んだりする。阿呆な人の言動を見ていると阿呆だなあと思いながら俺はそうじゃなくてよかった、いや俺はむしろ何も考えずに阿呆みたいに過ごせたら素敵だよなとガチで思ったりしている。この程度の論考で何かを考えた気になっているのかいベイベという外部の声を想定したりして、ああもう面倒くさいんだよ三流アジテーターと、また考えることを放棄したくもなる。今日は本当、戯言が続きますよ。俺にはどうやらキリスト教の素質があるらしい。嫌いなものがなくなって全てを好きになれたらいいのになあという考えを俺は持っているわけだが、それはつまりイエス! イィエッス様なのだという指摘。でも好き嫌いというのは嫌いなものがあるからこそ存在できる相対的なものであるというのだがそれははたして本当か? 身体が全部性感帯になってずっと気持ちよくなるのは気持ちよくなかった瞬間があったからなのか? そうは思えないのだがこれは相対化できていないということか? そうでもないだろ。オルガスムスの最中にそんなことを考える余裕はなくて、常にそうあることはできましょう。学習する時間がなければ「慣れ」ることはない。記憶を消してあの小説を、あの映画を、あのゲームをもう一度楽しみたいという思いつきは誰しも持つ。それをものすごく短いスパンでオルガ中に行なえば、ほれ永久機関。俺はその出口のないループの中でヒャッホーとなるわけだがそれでいいわ。ただし帰ってこれないことが条件だが。は〜またこういう現実では起こり得ない思考実験に身をやつして、しょうがないおバカさんね。宗教はすごいな。すごいものを崇めて思考停止したいという憧れと、宗教バカじゃねーの、死ねよという考えは相反しない。まーたどっかで誰かが既に考えたようなことを繰り返しているんだね。色々切り開いてみたけどもうそこは人の手が入っていて未開の地ではなかった。誰かが開拓済みの場所にしか至らない。つまらん。昔の人はずるいよ。あらかた掘り尽くしやがって。既知だから、掘り尽くしたように見えるんでしょうか。そうかもね。あまりにも抽象的というか、自分の頭の中での考えの補助的役割としてしか今この文章は機能していないので、第三者がこのテクストだけを見て意味を汲み取ることが困難であるように思えてきて益体ないので中断。