語り

 友人と学食で話していたらいつの間にか日本の行く末みたいな話になっていた。彼は学生でありながらものすごく金が必要な事情があり、賃金が低い地方での接客業だというのに、下手すると大卒者初任給を超える月給を稼いでいるらしく、ならばニュースなど見る暇もないのだろうという推測が可能であり、フリーチベットという言葉を知らなかったと言われても、至極当然のことであって非常識などとは露ほども思わなかった、といえばウソになるが、そりゃそうだよなあ、しょうがねえよな、と思ったのだった。政治的なニュースを聞きかじり、それなりの有識者たちからそれなりの見解を得ていて、これまたそれなりの興味をもって色々な情報を見聞きしたり、時には人とそれをテーマに雑談していたりした俺は、自然と彼にその経緯や背景などを説明しながら食事を共にすることになったのだが、意外とまとまった話にすることができたので少々驚いている。社会的な事柄に関してはこっぴどく疎い俺が、何となく「よく知ってる人」のように振る舞うことができたというのは、真っ白なキャンバスに等しい人相手だったとはいえ、貴重な体験だった。そしてこういう次元の人は多いのだろうな、とも実感した。話している内容、すなわちソ連の解体の経緯やチベットの実情などにおいては事実と異なる表現があったかもしれんが、一応は何かで見聞きしたことを基に全てを説明できた。もちろんこれが知識・考察の本質であるなどとは言わんが、すごい評論家というのは、もっと正確な知識、考え方を保有していて、それを基に高度なことが喋れるということなのだろうな、と予想した。要するに「評論」の最も初級の体験版をやったんじゃないかという気分になった。日頃から勉強を志向してないとこんなのはすぐボロが出るな。今日は何故かやたら堅い文体になってしまった。