人々との摩擦

 昨日は二、三年ぶりぐらいに、リアル友人と夜の盛岡を徘徊していた。なかなか面白かった。飯を食ってチェーン居酒屋に行き、カラオケに行って朝飯を食って解散という全く健全というか平凡なコースをたどったが、内容的にはまずまず満足いくものだった。夜遅くの始まりであったため財布に金が入ってないまま引き出すこともできず、立て替えてもらおうと思っていたのだが何とほとんどをおごってもらってしまった。全くひどい話だ。しかし俺は大してそれを断ることなくお言葉に甘えたのである。好意には素直に行動するべきであると考えているが、何か返礼ぐらいはしておかねばなるまいね。それでも向こうはそれなりに楽しんだようだし、こちらも面白くはあったのでよかった。
 しかし居酒屋での自由トークの時間というのは、何と膨大な空洞なのだろうと思わせられる。何時間という単位で、何でもいいから喋り倒さなければならないという状況を、よくもまあ人は耐えられるものだと思う。いや、楽しくなかったということではない。しかし何か発話を行なうにあたっては、やはり自分が普段から関心を寄せている事柄が自然と口をつくものだし、その他のことは特に知識も求心力もないわけで、とはいえ俺はそれなりにカヴァーしている分野が多いので、音楽の話になろうと政治の話になろうと社会の話になろうと小説の話になろうと話題を提出することや応対をすることぐらいわけないのだが、自分の内部でのエキサイト度合いは、平生からの自分の志向に大きく左右されるわけであるね。しかしどんな話題にしても、例えば音楽であれば何がよくて何が悪いと思うのか、その理由をどのように言語化するなどしているのか、という整理がなされている必要があるわけだよ。普通の会話というのは、何が好きなんだよね、何があんまり好きじゃないんだよね、という確認で終わるよね。しかしまあ自分が好きなものを嫌いな人が世の中に存在することなどもう知ってるわけだし、自分の嫌いなものを好きな人がどっかに居るのも当たり前なのであって、目の前のあなたがどうであるのかというのはどうでもいいんだよね。重要なのはなぜそうであるかという部分であるのだが、これを把握している、しようとして提出可能な状態にしている者はほとんど居ないわけだよね。できてないならその場でその作業をしながら話せばよいのだが、そうはしないわけだわね。なぜかというと興味がないんだろうけど、そこに齟齬が発生するわけですよ。別にその人がどういう整理の仕方をするのか自体に興味があるんじゃなくて、どのような整理の方式があるのか、自分と異なるのならその系の詳細を知りたくなるわけだし、似ているのならその視点で自分が偶然的にまだやっていなかった問題提起を聞きたくなるわけだ。でも現実は事実の確認に留まる。そうなるともう笑いしかないのだが、笑いのセンスが異なってしまえばそれさえできなくなるわけだし、仮に理解があっても、俺はどうしても笑わせる側に回るのであって、今回の面子の中だと俺はそういうポジションを担うのだね。そっちサイドもまあ面白いといえば面白いんだけど、例えばニコニコでいえば動画を作っているばっかりじゃなくて視聴もしたいわけじゃないですか。しかし人々との摩擦の中、多くの場合、自分は動画を作る側なのであって、視聴している側に回るのは、映画や漫才や小説などのエンターテイメントに触れている時ぐらいであり、対話ではない。そして俺は性質として自堕落なので動物的欲求が最近ではもはやメチャ強いわけですな。こうした前提を踏まえると、対話してみると全く相手は世のコトワリというのを分かってない、笑いもない、となればもうそのコミュニケーションの価値は縮小もいいところなのですわ。素地がない人には種も蒔けない。だいたい啓蒙は疲れるし成功しないし、成功してもそのままでは自分のコピー作るようなもんだからそれをスターターキットにして彼らが独自の領域に斬り込んでくれないとこちとら何も面白くないわけけどそんなもん何年かかるんだという話で文字通り不毛。独りで自分の好きなことしてても全然つらかないという引きこもりスタイルが完成するのも当然でしょう。自分の生活様式はそうなるべくしてなっているのだなと再確認したわけですね。対話という摩擦自体に対する快楽が希薄だとどうしてもこうなる。うまく振る舞えても内面的にちょっと不利だよね。