関係の輝きみたいなものについて

 今日は色々と書きたいことがあるのだけど既に5:42であり、はてな的な一日の区切りまでの残り時間のあまりの少なさに閉口する。しかしまあ木曜が空いてしまう結果となっても一応書けるところまでは書こうか。
 いちいち自分の活動を使い分けるのも面倒なので告白、すでに知っている人も多いことと思うんだけど俺はニコニコでゲーム実況をやっているわけですが、先日、同じぐらいの再生数、すなわち視聴されているレベルが同等ぐらいの、クリエイティブな意味で興味をそそられる人と交流を持つ機会を得たわけですが、面識を持つ以前にある種の尊敬を抱いていた人と相見えるというのは非常にエキサイティングな経験で、単純に言えば嬉しい。これは以前に、とつげき東北という人相手に一度経験したことがあるのだけど、具体性を伴わないイメージの誇張というのは自分の中で際限なく拡がっているもので、その人が相対的にどれほど優れている人でもスーパーマンではないので、様々な部分でその縮小が行なわれる。野暮ったい言い方で分かりにくいのでありていに言うと、幻滅のようなものが起こるわけです。この言葉、使いたくなかったんだけど、使ったからには注意しておきたく、言うと、全然その人のすごさは変わらないのです。一般的な意味での「幻滅」は全くしない。ただ、ホント何でもうまくやるんじゃないかという無茶な欲求が頭の中で肥大していくという感覚は分かるでしょう。例えば俺にとって筒井康隆などは、目の前にしたらおしっこちびりそうになってしまうほどすごい人になっているし、とてもじゃないけど言葉など交わせないぐらい神聖視しているが、どこかの密閉された茶室に筒井康隆と72時間二人きりになったとしたら、その感覚はどんどん薄らいでいくに違いないだろうという程度のね。そりゃ彼だって茶ぐらいこぼすだろうし、屁もひるでしょう。なんてこと言ってるんだ俺は。だけど、コミュニケーションの中でものすごく濃密な時間を過ごすことができるのは想像の通りだと思う。実際にそういう経験ができた。しかしずっと対面しているうちに、その新鮮さや何某は陳腐化していくだろうが、これがちょっと怖いのだな。だから相手を選んで交流の頻度を調整していかないと、有益な人間関係というのは構築できないように思うのです。まあそれはいいんだけど。