のんべえ

 酒量が多い。こんなに飲んでていいんだろうか。といってもそんなには飲んでないのかもしれない。しかし酒瓶がものすごい量になりつつある。もちろん空の。このままアルコール依存症になってしまうのだろうか俺は。アルコール依存症ってただののん兵衛だよ〜。いや今の発言はやっぱなし。発言自体がどうこうじゃなくて、別に何も考えずに発して、ちょっと見返したらっていうか打ち込んだ文章が視界に入った瞬間、別にそんなこと言いたいわけじゃないっていう気持ちになったので訂正しただけよ。ほら、そんな対象を削除しないだけでこんなに尺が稼げちゃうわ。問題を解決しようとする方法が問題になり、それを解決する方法もまた問題になってしまうという素晴らしきマッチポンプ。ぐるぐると回り続けるのはブームだけではない。ブームの再燃と言えばクレイジーケンバンドが思い浮かぶ。ああいう風に、何年か周期でブームというのは回っていくのだな。クリアして1年やってなかったRPGをもっかいやると面白いみたいなものかな。人生は壮大なる暇つぶしである・・・。壮大っていうか遠大で冗長だよ。今日も今日とて飲んでおりますね。
 100歳超えたような人に対して「長生きの秘訣は?」というお決まりの質問が投げかけられる。その質問がお決まりであるというのはどういうことだろうか。それを情報というか記事と言うかコンテンツとして成り立つと踏んでいる、王道と認定しているということは、それが記事に必要である、あるいは記事の価値を高めるという記者の推測あるいは不文律であるということ、つまり人々はそれを読んで「はぁ〜」と思う傾向にあるということで、長生きしたいのか。長生き。健康。いやっ、それはなかなかに複雑に見える問題だ。俺は健康主義などクソだと思うし長生きなどクソだと思うので身体に悪いことをバシバシやっているしそれでいいと思っているけど、いざ健康を害して病気になったら鬱陶しいし嫌だし、はいお前の寿命はお前が無駄遣いしたのでここまででーす死にますよーあなたーとか言われたらええーマジかよもうちょっと健康的に生活しておけばこんなことにならなかったのにと思うと思う。でもそういう土壇場で後悔するまでの自分の理性を信じる証左として俺は不健康な生活がしたい。つまり、理性をしっかり働かせて考えれば、満足に物事を行なえない余命を延長するよりも、満足に物事を行なえる今を充実させるために健康を害すことに臆さない方が、総合的に得であると結論できるのであって・・・いざその損得の凹凸の、明確な損の時期に来た時に、期待値的に得しているのに、その場の損を嘆いて、あーやっぱり嫌だ〜と言い出す可能性はあるのだ。分かりやすくいえば、いつ死んでもいいよと言ってるやつがいざ殺されそうになったら「死にたくないよー!」と言い出すのに似ている。その無様な終局を迎えない自信はない。でも総合的に得なんだから、もうその終局のことを考えずに突っ走ってやれ、今、健康に悪いけど楽しいとか気持ちいいとかおいしいことをやれば、そうなるのだ! という理念で煙草をやったり酒を飲んだり運動しなかったりしているのです。とてつもないよ。あ〜俺は糖尿になるのかもしれない。肝硬変になるかもしれない。人生って言うか、人間の時間感覚ってさ〜、当然その瞬間の現実しか認識できないわけで、例えば5年ニートやってから慌てて働き出すのと、1年めっちゃ頑張って安定した収入が約束されるという分岐が、自分の行動によって生まれてパラレルワールドがあったとしてさ、どっちがいいのかといえばそりゃ安定してる方がいいのかもしんないけどさ、1年めっちゃ頑張った時っていうのはそれはもう身を削るような辛い思いをしたとしたら、その1年のただなかにある時期っていうのはもうこの苦しみは何なのって思い続ける時期じゃないですか。その期間の間は不幸だよね。片や、5年ニートの方は、その5年間はほぼ弛まず不幸ではないかもしれないけど、いよいよ就職しなきゃいけなくなったという時に、1年間の就職活動が、最初からちゃんとやってた場合に比べて激務というか輪をかけて辛く苦しいものだったとしますね、だったらどうでしょうか。それが仮に2年かかるとしてだね、あーほら1年最初にがんばっときゃ済んだものを、後回しにするから2年に増えて、さらに過酷な就職状況になっちゃった。言わんこっちゃない、というのが通常の感覚における評価ですよね。でもそうじゃなくて、前者の1年なら1年はやっぱりしんどいわけです。後者も2年はしんどいわけです。その瞬間の因果関係ってさあ、その瞬間を生んだ原因ってことだけど、もうそんなの関係なくね? 過去の俺がどういうつもりでそのニート生活を選択したのかなんてもう自分の問題じゃなくて、そんなの他人みたいなもんですよ。そいつの当時の考え方というか考えは手に取るように分かるけど、それは今の俺じゃなくて、辛く苦しい瞬間の俺と、辛く苦しくなるように行動してしまった俺は別人なんですよ。だからこそ、その辛く苦しい瞬間の俺は、あの時の俺のせいでこんな目に遭ってるとか思うんですよね。自業自得なんてとんでもない、あの時の俺のせいだよ、クソがという話。アイデンティティって所詮そういうもんでしょ。過去の自分の判断とかを、まあ自分がしたんだからしょうがないという理屈で許してやってるのが自己同一性ってことじゃないの。でもちょっと翻ってみたら俺のせいじゃないんだよ。今の俺のせいじゃない。過去に行って自分を殴って愚行(今の悲惨な状況に至る原因となる行動)をやめさせたいと思うのは自然な発想だと思います。いや、別に今のリアルな俺の状況は悲惨じゃないんだけど、思考実験を容易にするために一人称で表現したまでですが。今の俺じゃない俺なんてみんな他人ですよ。ドラえもんでも描かれていたけど、三時間前の自分と一時間前の自分と三十分前の自分がもし一堂に会したら侃々諤々の大議論になるでしょう。他人です。そんなやつら。干渉できない無数の他人を我々は軌跡として残しながら生存を続けている。そう考えても考えなくてもよいでしょう。だってどうでもいいからね、そんなの。干渉できないんだから。藤子さんの「自分会議」という作品は刺激的であるなあと思い出す。ね、しょうもないね。鼻くそのようなものだ、こんな諸問題は。我々は。人生は。ポッパーッ! 酒の力を借りました。