ブログのサブタイトル、気になるフレーズ、語りとは

 この記事編集画面ってのはいつ開いても空白だから怖いよね。ブログタイトルの下にサブタイトルを入れる方法を見つけたので入れてみました。タイトルの右とか下とか、無駄にスペースが空き過ぎてバカみたいじゃない。もったいない。最近うちのIMEがバカすぎる。「〜〜とか」を50%以上の確率で「〜〜とカ」と変換する。わしゃいつぞやの女子高生か。この女子高生って言葉、気になるなあ。女子高に通う生徒って意味なんじゃないの、これだと? 普通に女性の高校生という意味で使ってよいのかな。仮にいいということになっても、違和感があるわ。おざなりとなおざりもややこしいねん。
 「死が乾いて至る」。この言葉がどうも俺の頭から離れないんだよな。九十九十九に出てきたフレーズだったと思うんだけど。「私が書いている」のアナグラムなんだけど。「死が乾いて至る」。なんでこのフレーズをずっと覚えてるんだろうな。覚えているっていうか、ことあるごとに脳内でこだまするんだ。いや、多分、原因は語感のみなんだと思うけど。別にこのフレーズ自体の意味とかイメージに惚れ込んだということでは全くない。
 ブログの存在意義って何だろうね。そもそも話というものの意義というのは。意義という概念が間違っている気が、してきますね。こうやって箇条書きで、あったことや考えたことを書き連ねていくと、「だから何?」っていう気がものすごくしてくる。自分でもしてくるんだからそれは間違いない。その無秩序ぶりに、何とか形式的なものを持たせようとして一段階進化すると、オチのある話というものになってくる。語りはオチのために行なわれ、オチを盛り上げるために語られ、あらゆる手練手管を使って、読者に面白いと思わせることを目指して作られる、一つの形式的な塊。読み手を楽しがらせるというところに語りの必要性とか必然性が吸収されると、ああ、まあ、意味あるなと納得できる。あるいは、意味のなさを隠蔽できる。そこから、意図的に形式を崩すことで「オチねーのかよ」とスカすこともできたり色々バリエーションが出てきたりもするが、しかし所詮はイミテーションよ。どう抗ったって、紐解いていけば意味など分解されてしまうのだよね。つまり世の中の70%のブログがクソなのではなく100%がクソなのであるよね。まあどの視点から見るかにもよるけどなあ。この立場だったら100%クソだけど、文字で書かれていたらいいという視点で見ればほぼ100%のブログが素晴らしいし。わざわざ穿った見方をしなくともいいんだけどよ。例えば何かRPGをする際にレベル上げは楽しいんだけど、チートを使ってしまえばレベルがMAXにできてしまうと知った時の気分がどうなるかってことよ。チートを相対化して、しかし俺は俺の手で地道に経験値を稼いでレベル上げして楽しめるぜ、そんなものの存在は俺のレベル上げの楽しみを阻害しない、という人もいれば、えーこんなに頑張ってレベル上げしても、その成果物は、一瞬でチートコード入力する手間と等価になっちゃうのかよ、やってらんねー冷めた。となる人も居るでしょう。実はレベル上げというものの性質はこんなものです、レベル上げで生まれる成果物ってこんなものですよ、という知識を手にしてしまった時に、どう振る舞えるか、どこまで相対化してしまえるか、という問題ですね。実は万物の意味って、ない・・・と知った上で、意味のなさを楽しむか、無気力になってしまうか。後者になって自殺した人って多いんじゃないかなあ。慰留する気にはならんけど、まあ生きてるうちは適当に足掻くわな。時々思うんだけど中二すぎるよな。でも中二って楽しかったよなあ。