欺瞞

 実は音楽の紹介することでこの日々のアウトプットをサボっていましたね。別に誰に怒られるわけでも咎められるわけでもないのだけど、少し自分の中で弱く課したことなので続けていかなくてはならないというか、続けることがidentify!!!!!!!!!!!!!!ですね。しかし今日もまたアルコールを摂取してひどいことになっていますね。着々とアルコール中毒の道を辿っているのではないかと思いますし、コップの中に煙草の灰も幾ばくか混入していることでありましょうから、健康は害されてしまうま。もしこのブログで何かを書くことが俺にとって重要なカタルシスだったら笑うな。何をそんなに追い詰められてんだよって話ですよね(笑)。しかし俺はちっとも病的な感覚でこれをやっているつもりはないのですよ。遊戯であり、訓練である。ボケ防止のためにパズルをやる壮年のような感覚はあるけども。
 さて、本台を何にしようかな。本題を。そうだなあ。最近関心のあるニュースって特にないよね。エロゲーが心を壊すだの、パンが喉に詰まっただの、色々と悲しい出来事はありますけど、どれももう色あせてるというか見え透いてますよね。ああ、人間の意味付け大好きな性質が変な形で露出しているなーというね。人間はあらゆることに意味付けをしたがるし原因を知りたがるし原因があるから結果が生まれると思いたがる。科学的な考え方がもたらした悲しみではないですか、これは。もしかしたらあらゆることには原因があるのかもしれないけど、それを全部整理できるほどテクノロジーは進歩していないのです。土壌は形成されているけど、カオス現象なんつってさ、まだ説明しきれないことはブラックボックス化して曖昧にやり過ごしている状況じゃないですか。天気予報だってあくまで予報でしょう。まあ、あれは観測者が現象の起こるフィールドに共存しているので、完璧な結論を出しようがない、つまり、天気予報している人もこの世のどこかに存在してしまっていて、ともすれば干渉してしまうので、この世とはまったく関係のない世界に居る人が、映画でも見るようにこの世界を観測して、向こうの世界で天気を発表する必要があるのかもしれないですが。そうじゃないかもしれないけどまあいいとして、でも科学=万能っていうイメージだけは人々の間に浸透しちゃっててさ、勝手に盛り上がっちゃってるから、何か不都合なことが起こったら、そんなのあるわけないって思っちゃって、絶対に誰かの悪意が干渉しているとしか思えなくなってしまうんだと思うんだよね。ここが肝ですね。誰かが悪意とか怠慢をかましたので、不幸な事故が起こった、不幸な事故とは、そういうものがなければもう起こらないみたいなことを思っちゃってるんですよね。だって違和感覚えないですか? 企業には責任をとる立場という人が居ますよね。部下の失態は上司の責任。責任をとるための立場、みたいなものがある。それってでも、おかしいですよね。だって、無理ですよ。部下の挙動を全てモニターなんかできるわけないし、ろくでもないバイトも居ますからね。吉野家の社長は、全国の吉野家のバイト君と会ったことあるんでしょうか? バカなことを言っちゃいけない。でも、そのバイトがやった不祥事は上の者が責任をとらないといけない。変な話ですよ。これはね、結局、バイト君ごときがやった不祥事でも、それなりに威力のある被害を生んじゃうわけで、しかしバイト君にはそんな責任をとるキャパシティなどない。ピラミッドでいえばバイト君は底辺に位置する数居るけど、実は客との接点なのであって、かなり重要なポジションなんですよな。しかしその役割に見合せて、重要な役職に就かせるわけにはいかないですしね。何せ数が膨大なので。ここはジレンマですよね。しかしご存じのように、上の者は責任をとることになっている。こんなの、もう運任せですよね。もちろん、できることはありますよ、管理体制を整えるとか、調理が不衛生にならないような現場の仕組みを作り上げるとか、リスクを減らす努力はできます。が、0にはできないし、1ぐらいにも多分できないでしょう。我々を含む若い奴は軽率なので、変なことしでかしちゃうんですよね、よくできたシステムの中でも。しかしね、バイト君の不祥事は上もリアルに怠惰であったと、考えてしまうんですよね、世間は。企業としてクソである! というような。もちろん逆もあります。ほら、福知山線の事故があった時、JRの管理体制や待遇に責任があるとかいう流れになって、駅員に暴言を吐いたりしてたクソバカどもが居たじゃないですか。でも駅員個人には、その事故など何の関わりもない。何かよく分からないものに押し出されて、あの事故は起こったんだと思いますよ。もちろん過酷な労働条件もあったし、杜撰なこともあったし、それが原因の一つだとは思うけど、それだけではないし、それがどれくらい原因の中の割合を占めていたのかは分からない。本当に分からない。いつもこういうニュースを見ると、「CUBE」という映画を思い出すんですよね。おぞましい、しっかりした最悪のものが厳然としてそこにあるのだけど、誰か特定のやつの思惑によってそれはそこにあるわけではない、色んな普通の人が、少しずつそれに加担して、形成していくものなんですよね。「CUBE」は本当に深遠で素晴らしい映画でしたね。まあ、それはいいとして、その不幸な事故だったり、最悪のものを目の前にしてしまったりした人は、しかしどこかにそのケツを持って行かなくてはやりきれない。それほど、その不幸な事故的なものは組織的かつ圧倒的かつ有無を言わさぬ感じで個人に迫ってきます。しかし実際にケツを持って行っても、そいつらが真の犯人ではない。パンを喉に詰まらせた生徒が出た学校の校長に、どれほど咎があったかといえば、俺の個人的な考えによると1%〜10%程度ですが、どれでも亡くなった生徒さんの前では土下座をしなくてはならない。あれは、世間のサイレント・マジョリティの圧力でやらされたことでもありますよね。校長先生がめちゃくちゃ可哀想とは思わない、つまり、運が悪かっただけだし、覚悟しておかねばならぬリスクでしたよねと慰労したい気持ちはありますが、まあその覚悟を発揮する時が来てしまいましたねという感じですよね。しっかし、本当、何か特定の目的にために、実直に行なわれることって、社会から消えつつありますよね。俺から見たら、本質的には悪くないのだけど、そういうことになっているから謝る、とか、こいつが一番の癌なのに、誰も裁けないし、金を取り上げることはできない、とか。リーマンのトップの奴らなんかまさに後者じゃないんですか? すっごい形骸化してるよな。あらゆる社会的振る舞いというのは。ナショナルが、死亡事故の危険がある機器を販売しちゃったかも、とCMやったら、誠意あるねーと感心されるような状況ですからね。よく考えたらおかしいですよね。イミテーションだらけの市場競争の中に、ちょっと誠意らしきものが見えると、妙に感動しますよね。そんなもんですよ。昨日紹介した音楽だってね、若者特有の、苦悩とかそういうのの吐露が、ちょっとうまい形で発現されていたら、おお、本物らしき感情だっつって、飛びついて、いいなあと思っちゃいますもんね。ま、俺もいいなあと思ってるクチなので、やめなさいよ君たちということではないんですけど。むしろ、そういうのを分かった上で、ナショナルとかバーガーナッツとかに接していく方が、深遠ですよね。より奥深く聴いていくことができるかもしれないし、時に自分を騙して、その土俵の上で踊ることもできますよね。こういうのこそを相対化っつーんですよね。気付いてない奴はバカ扱いしていきましょう。それが我々の矜持のはずです。あらゆることに反論の用意をしておきましょう。まあこれが最近思いついた考えごとの1割ぐらいですかね。また後日。