今月で25

 日曜になったのでブログを書く。今の今まで俺はここをブログだと認識していなかったことに今気づく。ブログではなければ何なのか。ブログではない何かだ。ブロークンだ。ブロ毛という毛があったとしよう。するとどうだろうか。それはどこの毛なのだろうか。いや、どこかの毛の名前が取って代わられてしまうのだ。すでにもう名前がついているのに、俺の思いつきによって、上書きされてしまう毛。名前が変わってしまうのである。名前をつけてやる。スピッツを貼りなおす。一見、全く関係のないはずの言葉が組み合わさってしまうのを目撃すると、少しドキッとする。ピカチュウ食べてる。スピッツを貼りなおす。ゴミ箱を植える。どう考えてもピカチュウ食べてるが一番インパクトあるわ。彼のセンスはすさまじいものがある。しかし彼がそのすさまじさで飯を食っていくことはできないだろう。時代が時代なら、ありえたかもしれないが、今は社会の底が抜けてしまっているのだ。どんな奇抜なものでも、過去にあったもののパクリではないかという訝りがあって、評論家は無知をさらすことを恐れて素直に称賛できない。無理にでも過去の何かにこじつけようとするだろう。知らんけど。盗作に賞を与えてしまう恐怖。インターネットの普及もそれに拍車をかけたと言わざるを得ないだろう。レポートがコピペの塊になってしまうのもそのためだ。みんなが知っているような公開された情報をたくさん知っていればどうにだってなってしまう世界だ。平凡とはいつも相対的なものであり、みんながもうできるようになったことは、できたってしょうがないのである。かといって、できなければスタート地点につくことも危ういのである。人類が進歩するのはいいことだ。しかし、人類の水準が上がるのは別にいいことではない。今に比べれば遙かにテクノロジーが劣り、教育などというものが稚拙でしかなかった時代でも、人々は笑い、泣いたはずなのである。そりゃTAKUIも「こんな不幸な時代に育ち」と歌う。しかし別に今が不幸な時代でもないだろ。いつだって同じようなもんなんじゃねーのか。いや、そうでもないかもな。流行病とか飢饉が起きたらそれは不幸だし。でもそういうことで一元化できるもんじゃねーんだよ! 民主党はこれから日本をどのように変えていくのか。たぶん悪い方向に変わるんじゃないか。人々が覚醒し、民衆の意思によって何かが決められる時、それは恐らくろくでもないものだ。人々が政治に大した関心を持たず、政治家の情報操作や力関係によって政治が穏便に動いてる時の方が、よほどマシな決定になるのではないかという考えが首をもたげる。だって俺ら政治家が毎日何してんのかも大して知らねーし、政治のことなんかハッキリ言ってこれっぽっちも分かってねーのに、なんで選挙権なんかあるんだろう。もっと教えてくれっつったって、日本国民みんなに教え込むのは無理だ。だったら知ってる人だけでうまいことやってくれた方がいいんじゃないのか。え、どうなんだ、え。