無題 パート1

 仕事へ行きすがら、パトライトが回ったままのパトカーと乗用車が、路傍に停まっているのを見かけた。
 その運転手と思しき中年のオッサンが、警察官二人と何やら口論していた。細かい内容まではよく聞こえないが、オッサンの方が時折発する叫び声は、嫌でも耳に入ってきた。「ふざけんじゃねえ!」と威勢よく啖呵を切ったかと思えば、「わかったよ」とも「悪かったよ」とも取れる、嘆願するような声を出したりもしている。
 意図がどうであれ、よくもまあ、あんな大声が出せるなあ。
 朝、駅前、通勤途中のサラリーマンが無数に歩き回る往来のど真ん中で、人目もはばからず、ギャオギャオと喚き散らしちゃって。格好は、ノーネクタイどころか、太った身体をさらに甘やかすようなゆったりしたTシャツに、すね毛丸出しの短パン。麦わら帽子をほとんど地面と垂直になるぐらいの角度でかぶっていて、似合う似合わないという次元で語るべきではないと思うほど不格好だった。
 やれない。こちとら、すぐにでも満員電車に乗り込もうっていうのに、朝から悠々とドライブですか。いいご身分だ。それもお巡りさんの厄介にまでなっちゃって。ふざけてんのは、どう考えてもあんたの方だろう。
 突然、キッという鋭い音が僕の耳を刺す。驚いて、オッサンから視線を外し、正面に顔を向けると、一台の自転車が、僕を轢き殺さんとばかりに至近距離まで迫っていた。そのハンドルを握っていたのは、サンバイザーをかぶった、しわしわ顔のオバサンだった。
 オバサンはチッと舌打ちをして僕を睨み、そのまま運転を再開した。すれ違いざま、「ちゃんと前を見て歩きなさいよ」と言われた。
 後ろを振り返ると、オバサンは前輪をふらつかせながら歩道の真ん中を爆走していた。何人かの歩行者とぶつかりそうになるが、全く避けようとしない。
 はあ?? なんで僕が文句を言われなきゃならんのだ。
 こっちがよそ見をしていたのは確かだけど、歩道を自転車で走って、人とぶつかりそうになっといて、あの捨て台詞は何だ。舌打ちまでしやがって。それに、進行方向に対して右側の歩道って走っちゃいけないんじゃないの? 左側しかダメだよな? 警察に通報してやろうか?
 全体、何なんだよお。僕は、好き好んでこんな道を歩いてるわけじゃねえんだよお。なんで歩いてるだけで、あんなこと言われなきゃならんの? 数秒、前を見て歩いてなかったら、サンバイザーばばあが「前を見て歩きなさい」とすぐさま注意してくれる監視システム? 人身事故寸前の体験で思い知らせる警告オプションつき? どれだけ前見て歩かせてえんだよお。そんなによそ見しちゃダメ? だったら、道端で注目を集めるようなオッサンとポリスメンの愉快なショウの方をなくしてくれよお。気になってついつい見ちゃったら、いきなりイエローカード? あんまりだよお。厳しすぎるよお。死ねクソ! って思いますよねえ? 同志、サラリーマン諸賢、みんなも同じように思いますよねえ? 行きたくもねえ仕事に行く途中で、そんなペナルティを食らったら、やる気なくしちゃいますよねえ? どうですか?
 ダメだ。皆様、一様、貼りつけたように、しかめっ面。これ、スーツに次ぐ、第二の正装。我関せずの術。つけ入る隙を与えないの巻。
 でも、心の泉源は同じですよね? 僕ら、見えないところで繋がっていますよね? もし今、僕らがいきなり別の星にワープして、この今の立場や生活がすっかりなくなって、ただの思い出になってしまったら、わはははは、何を言っているんだい、あんな暴言ばばあや道交法違反オヤジは即刻死刑が相当だったよ、誰もがそう思っていたに決まっているじゃないか、わはははは、と笑って、酒を酌み交わせるようになる日が来ますよね? あっ、僕は酒を飲めないから、オレンジエードをいただいても、よろしいですよね? 一杯目はとりあえずビールという風潮だって、この星ならではの儀式に過ぎませんよね?
 カハッ、というのは僕が現実に出した音だ。喉が渇くあまり、咳が出てしまった。あまりにも強い夏の日射しに晒され、水分がどんどん天空へと捧げられているのだ。何か飲み物を買いたいが、ぐずぐずしていると、会社に遅刻してしまう。
 コフッ、とまた咳が出て、僕は異変に気がついた。息を吸おうとしても、吸えない。レールが錆びついてる窓みたいに、詰まってしまう。勢いをつけて、ふんっ、ふんっ、と息を吸おうとしてみるが、一向に吸えない。
 でもそれは、僕が生物として躍進的な進化を遂げて、呼吸なしで生きていけるようになったのでは断じてなく、苦しい。咄嗟に、前を歩いている人の肩に手をかけ、ぐるんと僕の方に向かせて、訴えようとしてみるけど、咳が出るだけで声が出ない。それでも、何とか助けてほしい旨を伝えたくて、ガクガクと揺さぶってみる。事態の深刻さを理解してもらうために、全身で危機を表現しようとしてみる。唇がこそばゆく、痙攣しているような気がする。それもまた、ひとつのボディ・ランゲージたりえると僕は信じている。
 しかし、その人の顔はみるみる怯えたようになり、キャアアアア、キャアアアア、と悲鳴を上げるばかりで、その超音波攻撃により、僕はノックアウトされ、意識を失ってしまうのだった。