あけおめ

 考えられん。もうこのブログを最後に更新してから半年が経とうというのか。時間が経つのが早過ぎる。シュタゲの映画ってもう一年前のことなのか。どれだけの時間を無為に過ごしてきたのか。俺は何もしていない。文章を書くのも久しぶりだ。何か目的があって書くのは、食べログで少しやっている。短文であれば、Twitterに書いてはいるが、あれは文章の構造に思いを馳せることなどなく書いているので、感覚が違う。いや、この文章も別に構造に思いを馳せながら書いているわけではないが、このブログで書く文章の格式がこのブログ専用であるのなら、このブログを書いていない期間イコールこの格式の未使用期間なのであるから当然といえば当然か。初めてこのブログをMacBookAirで書く。ぷりけつのセッティングを丸コピしたせいで、キーを押しっぱなしにした時の連打間隔が非常に短く、ちょっと押しっぱなしにしただけで3行ぐらい同じ文字が連続して出る。ちょっと使いにくい。viを使うのであればその有効性があるのだろうが、俺はviなど使わず、使ってもsublimetextであるので、あんまり。そういうわけで、このキーボードの打鍵にあまり慣れておらず、半オートマティスムといえるほどの速度で書けてはいない。お陰で考える猶予ができて、それなりに書いていることも真面目くさっているような気がする。
 思えば、以前に比べて俺の生活は変容した。いや、変容していないのだろうか。もう三十歳を迎えようとしている。1984年生まれが、2014年にたどりついたのだ。つい先日、PSVitaを買った。これももう最新のゲーム機ではないが、かつて小学生や中学生だった頃、俺はゲームボーイを手にしていた。その頃に比べれば、なんという変化だろう。秋葉原のヨドバシで買ったおり、あるワゴンに、ファミコンをちっちゃくした携帯機のようなものが置いてあった。焦げ茶色と白のフォルムでごつごつしたあの機械が、今ではあんなになっちゃって。感慨のようなものがあるような気がする。あの頃は、それこそゲームと名のつくものなら何でも、というと言い過ぎだが、RPGと名のつくものは何でも目を輝かせてやっていた。ゲームボーイぐらいしか自由にできるハードがなかったが、ゲームボーイにはRPGのタイトルが非常に少なかった。歯がゆい思いをしたものだ。それが今はどうだ。PSVitaを気分でフラッとヨドバシに買い求め、せっかくだからと、それほど執着もしていないソフトを数本買い、家に帰っても、充電コードだけ差して放置し、他にやることがあるからとすぐには手をつけない。当時の俺と相対したら、相当なじられただろう。圧政を楽しんでいるだけで教育道義も何もない父親からの迫害に耐え忍び、間隙を縫うようにゲームをこなしていた俺の情熱は、もうだいぶ失われている。なぜ適材が適所にないのだろう。同じ金額から楽しさを引き出す効率と、年齢は、反比例しているのではないか。子供の俺に100万円をあげたい。今の俺は、その頃の反動の慣性で動いているような気がする。
 ラジオを一年も前にやめて、情報を発信する機会が減った。Ustream Checkerもかなり衰退してきて、だんだんと自分が閉塞的になっていくのを感じている。もともと活発ではない性分である。それでも、なけなしの好奇心でなんとか蠕動していたのが、人が降りたブランコの振れ幅のように、少しずつ停止していく。そんな感じである。もう少し快活であれば、これぐらいの歳でそんな収束は迎えないはずで、俺の知る人の一部も、頭角をあらわし始め、何者かになりつつあるのをたびたび目撃している。もともと彼らには才能があったのだ、こちとら、ただでさえ怠惰に骨を抜かれている身の上、どだい無理な勝負、こうして捨て鉢になればすべてが丸く収まるさ、という言い訳がましい惹句さえ、最近では鳴りをひそめ、特にそういったことについて、自分自身でも議論をせず、自然と触れないように、思考のマナーが整っていっている。たまにこの度のように述懐するおりに、そういえば、と思い出して陳述している次第。老い、と僅か二文字でケリをつけて、生活に戻るような気がする。
 この怠惰癖は、いつか治る時が来るのだろうか。俺は来ないような気がする。三つ子の魂ではないが、治るようなきっかけが想像できない。脳に電極でも差して、きつい一撃を入れるぐらいしか方策が思いつかない。このまま行くと、社会的には相当の不適合である。このまま、いわゆる「普通」の生活を志向するのは、StringをBooleanにキャストする縛りでデータベースを運用するかのような無理やりさを感じる。さすがにそこまでじゃないか。Stringをfloatぐらいかな。頑張れば何とかなるが、頑張らないと何とかならないぐらいの、厳しさである。通常人と、空気に触れているだけで痛みを感じてしまう神経を持った人、とまではいかないが、空気に触れていると圧迫感を感じる人ぐらいは行ってるかもしれない。怠惰のまま許されてきたからだろう。それでも何となくフラフラ、生きてこれてしまっているので、社会の要請をスルーできたのである。運が悪ければ、もっと早めにニッチ・アンド・サッチ・ドント・ゴーに陥り、軌道修正を余儀なくされ、馴致するものとお見受けする。今、俺が纏足しても、足は小さくならない。オー迷子!参ったねこりゃ。
 しかし俺もただでは収まらない!覇気こそないが、まだ何か一発を狙っている。一発を狙い続けながら生涯を終えるだろう。こうしてブログを書くのも、文章のリハビリテーションという狙いがある。ブログはいいね。俺がその気になれば、いつだって迎え入れてくれるのだから。実家のようだ。実際の実家はそうでもないが……という話題はいいとして、俺の今年の目標として掲げたもののひとつに、積年の、小説の賞に一本送るというものがあるのだ。もう今年が半分近く終わっていることに、一応戦慄しておくが、どうにかこれは成就させたい。往年の半オートマティスムの経験を活かして、諧謔的に言葉を紡ぎ、何とか一丁でっちあげたい。頑張ろう。