暮らし

 はたとブログを開いてみると、いつの間にか数ヶ月ほど更新していない。という状況がもう何回繰り返されたか分からない。前回の更新は楽園追放のネタバレで、それがもう2ヶ月前だということにまずファースト驚き。オートマティスムのやり方もいまいち覚えてない始末。のろのろとキーボードを打って、これじゃない感を獲得しているだけの朝。能力は退化しうる。
 正社員として初めて就職してからもう2ヶ月半が経とうとしている。過去の俺が想像しようとしてもできなかった光景だ。つくづく向いていないと感じられる。決まった時間に決まったことをするということが恐ろしく苦手で、別にそれは素質が関係するようなことでもないし、素質がなかったわけでもなかったと思うのだが、今までの人生で、決まった時間に決まったことをしてきた経験が少なすぎて、それに馴致してしまい、受け付けなくなってしまっているのではないかと危惧している。人間、歳をとれば性質が凝り固まる。怠惰な生活に甘んじていることを許された、何とかなってしまった20代を過ごしたせいで、慣れ切ってしまったような気がする。その性質自体は俺の思想的に忌むべきものではないが、不便である。自分のアイデンティティの一部が不便であるとのたまう。しかし人間の電気的反応はあまり連続的でないという考えを持っている俺からすれば、まあそののたまいも一理ある。人間はしょせん肉体の器を物理的になるべくいい状況に運ぶための装置であることに徹底していると思っており、それを大きくするために理性を搭載しているが、その理性が邪魔になるケースでは理性に基づかない行動を容赦なく割り込ませる仕組みもまた搭載しており、理性視点からすると連続性がなくカオスな振る舞いというものは簡単に生成されるのである。という話だがご理解いただけるだろうか。
 そんなことはどうでもよくって、日々の暮らしに疑問を抱きながら緩やかに絶えていく自分がつらい。これは横溢していた昔の精神の残滓の健気な抵抗のように思える。仕事というのはおしなべて面白くないものであるが、では仕事に割り当てられた時間のただなかにいる時、早く過ぎ去れ、と考えるのは、恐ろしい自己否定である。仕事中とはいえ、その時間は紛うことなく自分の人生の一部である。「お前、自分の人生が早く過ぎ去ってほしいと思っているのか?」と俺の中の俺が俺を問いただす。その問いに、俺は決まって曖昧な笑みを返すばかりだ。死に急いでいるのか。そんなわけはなく、ただ単に矛盾し、破綻している。
 出勤する。