アキバ通り魔事件

 昼休みにちょっと書こう。20分ぐらいでどれぐらいいけるかな。秋葉原ですごいことが起こりましたね。時事ネタを扱ったってしょうがないと思うんだけどこういうのはとにかく語りやすい。詳しいことは分からんが、人生がどうでもよくなって記念に殺人でもやろうというこの流れは、病んでるなあ。病んでるといっても俺はそう思わないのだけどね。追いかけるものがなくなったせいというのもあるんじゃないですか。あと、尊大な存在、つまり「領主様がおっしゃるなら仕方ない」のようなものがなくなり、平等が叫ばれて誰が偉いとか偉くないとかがなくなりつつある、いや実際には資本主義の格差というのは尋常じゃなくあってすげえんだけど、金持ちが偉いわけじゃないんだということになっているので、主従関係の安寧がなく、宗教的な安寧もなく、途中。
 失礼。まだ投稿した時点では昼休みだったが、直後にゼミの行なわれる部屋のノートパソコンを利用して書いていたため、発表をする人が事前に使いたいというので代わったため、中途半端な形で終わった。今、ようやくゼミが終わったので続きを書く。何の話だったっけ。我々は宗教のどうでもよさに気づき、確固たる尊厳を持った雲の上の存在、つまり神を持たないので、目的意識を失ってしまった。生に意味を与えるという意味で宗教はすごかった。紛争や戦争や正義なども、その役割を果たしてくれた。しかし今、現代の日本人にはそれが欠けている。ということなんですかねえ。想像、あるいは創造ですけどね。何とかごまかしごまかし、生きる意味なども考えないほどパッパラパーならそれでもよいのだが、中途半端に知的である人、あるいは生の穴ぼこに気づいてしまった人は、不幸である。相対化をおし進めると、生きる意味は「ない」という当たり前のことにたどり着き、ゲーム的感覚で生きることができるようになる。リスクマネージメントをし、それで殺人や通り魔などの犯罪にメリットがあると踏めば、躊躇なくそれを行なうことができるようになるだろう。死に近づくような行動となるかもしれないが、それよりも先に「痛み」とか「捕まったらいい生活ができなくなる」など、実質的な損失が優先され、未定義値である「死」は、よくわからんので考慮しないという姿勢になるだろう。だから「通り魔して死刑になったれ〜おもろッ」という発想は、ひょっとすると合理的なのである。でも世の中のほとんどの人間はそこまで相対化していない。通り魔をやったやつのほとんども無自覚的だろう。ただしこれは作家が批評家になれるか、あるいはなる必要があるのかという問題に近くて、別にそんな論理的でなくたって傑作書く人は居るし通り魔は楽しいからやるやつもいる。通り魔なんか、楽しくなかったら絶対やらんでしょう。だから楽しいに決まってる。でも実際やるかどうかといったら、やらないよね。シャバの空気は吸いたいし、世の中のあまねく人々と断絶されるのは嫌だし、社会的な地位が並未満になってしまうし。通り魔に本気で怒ってる人も居るし、遺族の方々は並々ならぬ憤りなのだろうが、弁えている人からすれば「あーあやりやがった」というのが素直な反応というものでしょう。もちろん、殺人にみなが憧れているなどという馬鹿げた空想はしてませんよ。禁忌を破る愉悦を感じる感受性を持ち合わせ、その上でそれを遂行したという快楽への嫉妬とでも言おうか。通り魔なんかやるやつはキ印で理解を超えている、あるいは理解しようとも思わないなんて人は多いが、想像力が足りなすぎるだけの話だよ。やるかやらんか、やるべきかやるべきでないかの判断は、やりたいやりたくないとは全く別なのであってね。あとね、どうしても通り魔がやりたくて、やらなければ頭がおかしくなりそうな性質が生まれつきの人は、どうしたらいいんでしょうかね。法は欲望までは裁けないと東浩紀さんは仰ってましたけど、そんなキャッチフレーズみたいな言葉で考えを集約する前に、もし先述のような性質の人が存在したら、通り魔に憤ってる人はどうリアクションするんでしょう? 「そういう風に生まれてしまったのが悪い」って言うんでしょうかね。「そんな性質のわけねーだろ」というのが最も正論っぽいだろうが、本当にそんな性質じゃねーのかよ。よくゼミをサボるやつが、とうとう自分の発表の回も来なくて、さすがに単位出せないなあとなって、後で「あの回だけは理由があって、ぼく誘拐されたんです」つってさ、それがマジだったらどうする。どこに「ねーよ」の線引きがあるのかが曖昧なことはいいんだけど、それが結局当人らの気分しだいで規定されるというのが悪いよな。でもこの考え方って結構自家撞着してて、じゃあもし「本当はレビンなんかより1億倍聡明なんだけど、ν速で適当な憶測と感情論で幼稚に振舞わないと死ぬ病気にかかっているのでしょうがなくバカみたいなレスをつけている人」だったとして、それを俺は「ねーよ」と言えないのだよね(笑)。要するに印象かなあ。つまり、ホントは俺の1億倍すごい人がバカの振りをしているサイトが2chであるというのと、通り魔が実は心の奥から来る抵抗できない衝動であったというのの可能性があって、それを持ち出すことが人々の想像にどう響くか。バカバカしいと思われるレベルか、結構納得してもらえるレベルか。そのバランス感覚が肝要なのだが、バカ側はその可能性の思索の能力も低いので気づかなくて、「ステレオタイプに事象にレッテルを貼るバカ」と「あり得る可能性を想像し、取捨選択ができるカシコ」に二極化を起こしてしまうということになり、それぞれがそれなりの数居るという状況になり、どっちかのフィールドではどっちかがもてはやされるということになります。まあ、後者の勝ちは分かってるんだけど。大事なのはいかにパッパラパーを料理するかってことです。ここまで言ってなんだけど、でも、多分、ほとんどの通り魔もパッパラパーですよ。手口が原始的すぎるし。そんなに人殺したいならもっと効率的で大規模になるよう計画を立てて、入念に準備するだろうよ。俺がその立場なら絶対そうするわ。いつの間にか大衆叩きの一環となってしまったトピックでした。