卒論、理想のテーマ、短編

 えー、いい加減そろそろ卒論に着手しないといけないのだよね。水曜の午後に進捗の報告をしに行かなければならないので、月曜・火曜で、やるはずだったことをやって結果を見せに行かなくてはならぬ。二日あれば余裕であろう。さすがにこの、ほぼ長期休暇のようなゆとりを持った期間で、卒論だけやりなさいとなっている状況であり、今までのことを思えば格段に楽になった我がタスクであるのだから、これを失敗して卒業できませんでした、テヘッ☆、では困るというかバカバカしいので、重い腰を上げて、やろうと思う。何、俺の理解できるPerlスクリプトをいじったり、ニコニコを見てコメントを採取するなどの行動でいいのだから、ストレスはそんなにないはずだよ。いやーでも今まで全然やらなかったということはやっぱ面倒なのかもしれない。しかしまあ、人が居ない、日の出ている時間になって、まだまだ寝る時間ではないので、ちょちょっと、自分を誤魔化しながらやろうと思う。つまりこの日記は、余暇との短い訣別を自分に言い聞かせるためにも書かれている。
 自分が最近「短編」というサイトに投稿したことを契機に、自分が物語的な土壌で何か表現するとしたなら、何を表現したいだろうかということについて考えてみる。っていうか前に書いたような気がするね。「無条件の解放」がテーマのような気がする。これは結構、自分の中で年季が入ったテーマで、具体的な形としてあるのは、前にも言ったけど「Middle 2 Sickness」という楽曲だ。手前味噌で恐縮だが、なんかバーッと解放されたいみたいな気持ちがあるのだよね。日々、なんか知らんけど鬱々とした気持ちがあるにはあって、それはマスコミが演出する「日本オワタ」的報道が、過剰演出であるとは分かりながらも、世界中で殺人なんて山ほど起こっているという知識はあっても、目の前で殺人が連続して起こったら、そういう統計的全体的な知識とは全く関係ないところで残念な気持ちになるように、目の前で悪口を言われたら、それなりに影響を受けるのは仕方ない。これは相対化を徹底すれば「目の前で起こっても目の前で言われてもそんなのたまたま位置的に自分に近いところで店見らかされただけのことなんだよーん」と考えることが可能になり、脱却できるのかもしれんが、俺は相対化しないでおく。これは「あえて」相対化を推し進めないのではなく、妥協ですよね。思考を曖昧に放棄した生き方をしているので、それぐらいのぬるさがちょうどいいんだよ。俺はどうやら一般的な感覚と理知的な感覚のダブルスタンダードを持って、相手や状況によって使い分けるということができるほど器用ではなさそうなので、その二つを混合した一つの曖昧な価値観を馬鹿の一つ覚えのように使っていく方が、脳のスペック的にまだマシだと思われるので、例えば一般的な感覚の美しい女性の前ではひたすらエンタメ精神でいっておいしいところを取りに行くなどの行動がこなせそうになく、そこが俺の限界なのかなあと思って採択することになりつつある。残念なことであるが・・・。まあそんな感じなので、良好な人間関係を構築できる確率が低いまま、たくさんの人と出会って、母数を増やすことで一定の成功例を勝ち取るべきなのだろう。よって俺は多くの人とコミュニケーションを一度はとってみて、ダメだったらすぐ切り捨てるなどし、適合する人を探していきたいと思う。嘘のない気持ちです。
 それで話が逸れたけど、俺は最近書く話とかはもうそういう感じで、なんか鬱々としているので、もう因果関係とか全部すっ飛ばして、救ってくれる存在があればいいなあというものが好きなのだよ。それはつまり宗教なのだが、うーん、どうでしょう? 今、俺は宗教に興味津津のような映り方をしているかもしれないが、そうではないのだよな。なぜかというと、宗教って、格好悪いでしょう。もしこれが利己主義で、自分の得になることなら、外聞など知ったことかとまで割り切ることができるなら、満を持して教会に行くことができるのだろう・・・多分。しかし俺はさっきも書いたようにダブルスタンダードであるので、そこまでは踏み込めない。しかも、そんなもの、偽物であると、看破してしまっているからね。もしものすごい論客が目の前に突如現れて、俺のことを論破してくれれば、幾分か入信する気持ちになるかもしれないけど、そんなやつ多分現れないだろう。世の中には居るのかもしれないけど、俺とそいつが言葉を交わすことはないだろう。そんな人、少ないだろうからさ。世の中には俗にいう「いい人」とか「思想的ガードの甘い人」が山ほど居るんだから、わざわざ俺のような小手先の理屈でガードしている人間のところに来るとは思えん。金もないしね。かつてのホリエモンぐらいになれば、何としても落としにかかるために、百戦錬磨の論客たちが行列を作るかもしれないけどさ。まあそういうことがありまして。でもやっぱテーマは「無条件の救済」。手段が存在しないことを薄々感知していながら、憧れているのですよね。ほら、世界は自分の中にしかないのだから、ムチムチおねーちゃんを幻視して、よろしくできたら、とにかく俺を労働させたいような人以外の誰にも迷惑をかけずに、バビョーンとハッピーになれるでしょう。そういう感じでね、でもそんな具体的に俺が思いつく方法では救済とは言えないので、想像外の形而上の手段でね、そういうのがあったらいいな〜みたいな。フィクションなら実現できるじゃないすか。そういうのがいいな〜って思うんですよ。そんでセコセコと短編書いたんですけど、えー、ここからの記述は、別に批判とかそういうんじゃなくて、単純に俺が思っただけのことを書き出すという目的によってのみ為されるもので、読者諸賢の同調とか援護を求めるものでは一切ないので、俺を信用している人に尻馬に乗ってほしくないですが、俺のそういう価値観をテーマに書いた短編について、かなりの実力者らしいqbcという人によれば、「汚い」という風に映ったそうなんです。これはちょっとした衝撃でしたね。あー、やっぱそういうのって汚いのかなあと思いましたよ。そりゃ20分ぐらいでパッと書いたやつなので全然凝ってないですけど、書いた直後は、おおこれ面白いんじゃないのって思ったんですよね。俺の意識ばっちり入ってると、手前味噌ですが思ったと。でもそれ(テーマ)はやっぱ汚いのかなあ。コンセプトとしては、そういう救済みたいなものを求めたものの、世の中とはやっぱり全然相容れないので、結局ひどい目に遭って、けちょんけちょんに扱われる、そんなもんだよな、ということなんですけど、汚いかなあ。暴力的な流れや描写がカッコイイとか思ってた舞城ハマリ真っ只中の時期は少し前までで、今ではそれと少し距離を置けているんじゃないかなあと思ってるんだけど、そうでもないんかなあ。理解されないならされないでいいんだけど、理解されない原因が、俺があまりにも文章書くの下手なことにあるのか、そういうのって伝わらないってだけのことなのか、今の俺には判断がつきかねる。多分、うーん、卑下するわけじゃなくて前者なんだと思うんだけど、うーん、そこそこ自信あるんだけどな。文章書くの。センスないとはよく言われるんで、そこはそこそこ自覚してるんだけど、何か文章書く時は大抵、俺、誰かのパクリをやってるつもりなんだけどな。元ネタを理解してなくて、的外れなパクリ方をしているのかなあ。というようなことを考えていたんだよ。ここまでがその投稿した短編の受け取られ方についての記述だよ。何のことか分からんだろうけど、短編のリンクはやめとくわ。俺のやつは多数の人にとってしょうもないと思うし。ワンクリック以上のストレスを抱えてでも内実を見たい人はググってもらえると助かるが。まあそんだけっすね。
 あーそろそろやるかなあ。7時になるし。全く生産性のない論文に向けてやるだけやってみます。でもまた今からゲームとかするかもな(笑)。その辺は、適当だ、もう。