能力と才能

  • 大体何をするにも能力か才能が必要。当たり前の話だが。
  • 箇条書きって楽だね〜。
  • 何かを楽しむことも能力か才能が必要。AKBの曲を楽しめる能力か才能があれば、自分の娯楽の範囲にAKBの音楽を加えることができる。殺人を楽しむことも能力か才能。他人の陰口を楽しむことも能力か才能。
  • 才能は、鍛えることのできない先天的な能力のことを指す意味で使っている。能力は、努力などで伸ばすことができる、何かに関する技術を指している。
  • この定義だと、才能と能力を合わせれば、人間が何かをなす際にそのクオリティを変化させるすべてが包含されていることになるので、結局のところ何も言っていないに等しいと言うか、当たり前のことである。
  • 冒頭で「当たり前の話だが」と言っているので、いま気づいたのではなく自覚はあったのか。
  • 人間の標準スペックからブレることで天才になったりクソバカになったりする。まあだいたい正規分布のような気がするが、ある才能や能力はピラミッドみたいになっているようにも思える。
  • 例えば将棋の強さは正規分布ではない。大半が赤子同然で、ごくごく少数の、ダントツの精鋭がいる。
  • 専門的な分野ではそれが顕著だ。学校の成績は、一応は全員に同じようなOSをインストールしようとし、同じぐらいの時間をかけてあげるから、けっこう正規分布する。将棋はそもそも「やらない」という選択があり得る。興味によって機会が不平等なので、ピラミッド型になる。
  • 思考・思想・分析・考察などの才能や能力は、ピラミッド型である。
  • 生きていく上で重要な事柄こそ、才能はなくとも、人々は時間を割いて能力を伸ばす必要があるはずだが、人々の認識とのギャップが大きい。池田信夫によれば、そういうバイアスは当然ある。
  • 思考・思想・分析・考察は、超重要な項目だと思う。なぜなら、あらゆる困難や苦痛を打開するために超有用だからだ。あらゆる行動の礎になる事柄でもある。シヴィライゼーションでいうところの超初期のテクノロジーで、これを取得しないと他のテクノロジーを取得できない。
  • だが多くの人は取得しない。それはそれで合理的なのだが・・・。
  • やっぱりそういう時間を教育で割かれていないし、積極的にそのテクノロジーを取得しなくても何とかなるぐらい平和で裕福なのが、あまり取得されない理由なんだろうな。
  • 俺は幼少の頃から理不尽な目に遭うことが多く、必要に駆られたので取得するためにスキルポイントを多く振った。その杵柄で、今はまあまあ楽しく生活できているし、色々と得をしてきた。これにより、諸々の負の才能はまずまずカバーできている。
  • 様々な娯楽から、楽しみの蜜を絞る才能や能力がなければ、一体感や日常でやるにはリスキーな行為を仮想空間でぶちかます興奮ぐらいからしか楽しみは絞り出せず、焼畑農業のようにあちこちを燃やしたり荒らしたりするぐらいでしか楽しめない。もしくは、その楽しみがより楽しく感じられる。
    • 無論、娯楽を楽しむ才能や能力は、思考・思想・分析・考察の才能や能力に大きく関わっている。例えば、紙とペンさえあれば、ある論考を書き綴るだけでも、一定の時間、楽しむことが可能である。飯が炊けるのを待つ間に、ブログの記事を書いたりもできるw。雑草を百科事典で参照して知ること、鉄道の駅を暗誦すること、そしてAKBの楽曲を楽しむこともできるだろう。
  • 当然、焼畑農業だから、焼かれたところは不毛の地になる。具体的には、人生がよくない方向に転換される(アディダス社員Twitter事件のように)。または、萎縮して娯楽の種を生成しなくなる(身近な例では、配信しなくなったり動画を上げなくなったり)。
    • 多くの人は「得られたかもしれないこと」の損失には非常に鈍感なので、彼らは前項のようなことは別にリスクではない(と思っている)。
    • 人間なんていくらでもいるのだ、という中国の考え方とさして変わらない。
  • もう20やそこらの年齢になってしまったら、そう簡単に生き方は変えられない。もうそんぐらいの歳になって、そうなってしまっているのだったら、ほとんど諦めるしかない。その生き方を追究していくしかない。もっと若い世代に期待したいが、特別、教育の方針が変わる予定があるわけでもないので、今後もしばらくはそういう生き方の人たちが多数を占めるだろう。一緒に歳をとっていくわけだから、そういう連中と付き合うしかあるまい。
  • 焼畑農業に対する怒りは、通常は「金」を搾取することで相殺する。テレビ局の社員などが好例だろう。理不尽な批判や正当な批判にさらされて、相当なストレスだと思うが、高額の給与で溜飲を下げている。政治家もまあそうだ。声優もそう。ゲームクリエイターもそう。そういうのに怒らない図太さがあればなおよい。
  • 金を搾取するには、多くの人の反感を買ってはいけない。たとえ正しくても、大衆に向かって「お前らはなんて馬鹿なんだ」と言うと、「はあ?」と怒られて、金があんまり入ってこなくなる。具体的には、不買運動をされたり、とにかく酷評されて評判が悪くなって仕事が減ったりする。当たり前の話だが。
    • ただし大衆を相手にしない職種であれば、その限りではない。大衆から既に金を搾取している金持ちを相手にし、大衆を相手にしなくてもよい商売であれば、別に大衆から総スカンを食っても関係がないので、その人の気分でどうやったってよい。例えば、富裕層向けの家具屋とかトレーダーとか、あと俺の解釈では、カオスラウンジのような芸術家とか。
  • なので、多少なりとも社会的地位を伴って金を搾取している者や者たちは、なるべく耳障りではない心地よい言葉を並べる。ちょっと有名になると体面を気にしてラディカルになれなくなるのも当然だ。
  • 言葉の正しさが武器の一つである批評家にしたって、その法則はある程度免れないだろう。
  • 俺はそういう立場ではないので、反感は別に買ってもいい。
  • 飯が炊けた。