争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない

よく見かける「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない」という言葉。
反例がたくさんある嘘である。
強い国と弱い国の戦争については「蹂躙」と言い換えたりして反例を潰していこうと試みる者もいる。その命題に当てはまらない(と多くの人が直感的に思う)事例を除外するだけのことである。
(「蹂躙」だといえば「蹂躙」だし、「争い」だといえば「争い」である事柄であるが、「蹂躙」カテゴリを恣意的に強調することで、「争い」カテゴリから外れたように見せるテクニック)
このため、「争い」という語が意味するところは、一般的に認識されている意味からするとかなり特殊なものになる。

自分たちより目立ったり出来が良かったりいい目を見たりしている者を、自分たちと同等、むしろそれ未満であると思い込みたい大衆は、今までにもたくさんのレトリックを生み出してきた。

  • 煽る→否定的に反応する→「スルースキルがない(俺らはあるのに(たかだか著名人側の一人や二人にひどい言葉を言われても人数で薄められるので、全然スルーできる))」「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない(はい、こいつはもう俺らと同じレベル)」
  • 煽る→反応しない→「説明責任(否定的な反応を促す)」「つまんねー(言いたい放題、大衆の今までの主な快楽生産方法)」
  • 煽る→謝罪→「メシウマ(自分たちよりえらそうな人が自分たち(を含む国民)に頭を下げた、もうそれだけでカタルシス)」
  • 煽る→うまく切り返す→「うまく」ということの必須要件の一つは「大衆に攻撃的なことを言わない」なので、安心して大衆とりあえず満足

「煽る」はそれ自体で快楽を生み出す。5年、あるいはそれ以上前ぐらいまでは、「煽る」が主な快楽源だったのだが、最近はTwitterなどのネットメディアのおかげで著名人との距離が近づいたし、ちょっとスレが立って数十人ぐらいの人が書き込んだだけでニュースに取り上げられたりするので、助長され、上記のような、より効率的な快楽の生産方法にシフトしているのであった。
怖いね。