人間怖いわ

 俺がブログの記事を書くのは、人間の手による驚くべき愚行を目撃した時であるという法則があるような気がしている。最近は特にそうだ。
 究極的には、一家言持っているやつら全員で殺し合うしかないと思う。それで勝ったやつが考えていることが正しい。一家言持っていなかったやつは、そいつに従えばよい。もうそういうことでしか正しさを見い出せん。
 しかしそうはならない。依然として、人々は明白な矛盾を孕んだ言葉を好き勝手にのたまうだろう。矛盾というと聞こえがいい。誤りといってもまだ聞こえはいい。欺瞞でも生ぬるい気がする。
 いずれにせよ、やめさせることはできん。罰することもできん。
 発言の80%以上が嘘いつわりみたいなやつが世の中には本当にいっぱいいるんだろうなあ。
 そいつらにしたら、嘘いつわりをやめたら、世界から精彩が消えてしまうんだろう。嘘いつわりによって自分が活き活きしていることに自覚的であるかどうかはあまり関係がない。まあ自覚的でない方が多数派だろうと予想はするが。
 世界から精彩が消えるという点については、確かに耐えがたいことであるから、日々を充実させるために、彼ら彼女らは嘘いつわりで自分の周囲を満たす。
 その「自分の周囲」の範囲が拡大した。
 我々が全く知らないところで今もあまたの人間が様々な活動をしているわけだろ。同じく知らないところにあまたのコミュニティがあって、知らない盛り上がりをしているかもしれない。その知らない盛り上がりが極まって、マジキチなことをして影響力を持ってくることもままある。真理教しかり動物/環境愛護団体しかりニコ生しかり。
 さっき、嘘いつわりを撒き散らすやつがそのことに自覚的であるかどうかはあまり関係ないと言ったが、やっぱり関係あるかもしれん。
 若林亜紀のような例は、戦略的かつ自覚的に嘘いつわりを撒き散らしているが、公務員をひたすら叩いているやつなんかは自覚的じゃなく、もともと嘘いつわり製造機ではなかったのに、戦略的なやつにアジられて嘘いつわり製造機になってしまったやつもいるからだ。
 後者を憎むことは、人間の設計図の不具合を憂うことと等しいと俺は考えている。
 その設計図には、確率的に不具合を孕んでしまう箇所がたくさん含まれていて、どうしても一定の割合で、不具合を持った人間が生まれてきてしまう。
 だから強行的な手段としては、著しい不具合を持って生まれてきたやつを間引くことが考えられる。ぶち殺すということだ。
 死刑制度はそれを一部、実現している。
 しかし、この間引きは、いったい誰のためのものなんだろうかという疑問も湧き上がってくる。
 もしその不具合度が正規分布しているのだったら、間引きラインを平均に設定すれば、半分ぐらいぶっ殺せば済む。
 ところがピラミッド型だったら大変だ。9割ぐらいぶっ殺さないといけないかもしれない。
 だったら、ぶっ殺すということが可能なのかという問題になってくる。人狼なら、村人と狼が同数になれば村人をぶっ殺すことができる。しかし多いうちは無理だ。
 死刑制度でさえ、1億とか2億とかのうち100人もぶっ殺せていないということは、まとも側が100万人以上いて初めてマジキチを1人ぶっ殺せる計算だ。半分とか9割とか、とんでもない。当たり前だがw
 俺が「不具合」と呼んでいた具合が普通であり、それがないのが「幸運」なのであったなら、ぶっ殺すもくそもない。
 運よく不具合がなかったんだから、我々に尽くせや。我々は好き勝手にさせてもらう。ということなのかもしれない。
 よく考えたら、現状がそうだったな。
 クソゲーすぎ。