大衆 +3ドロー 他のプレイヤーは全員、自分の山札の上から3枚のカードを公開し、公開したアクションと財宝カードを捨て札にし、残りのカードは好きな順番で山札の上に戻す

 大衆が息巻いて何かを批判する時というのは、本当はほとんど気分が悪いとかむかつくとか自分が損だとかの理由によってそうするのだが、一応は何らかの大義名分が必要になる(戦争と同じ構造)。
 その大義名分の位置に「法律」が据えられていることが多い。今となっては懐かしいオレンジレンジや、カオスラウンジの時には著作権法河本準一生活保護騒動の時には民法、誰かの暴言にさえも「脅迫」などとして法律に抵触していることを大義名分にすることは、ままある。それさえしておけば、あとは言いたい放題になるので非常に都合がよろしい。
 かと思えば立法に対しての批判も噴出する。人権擁護法案やダウンロード規制などについて、それは顕著だった。法律に誠実であるはずの大衆は、そうした新法にも噛みついていく。価値判断において法律を重視しているはずなのに。
 今までに立てられた法律は、間違っていないという前提は、どこから来るのだろうか。盾にした民法や刑法の公理性、無謬性を、どのように保証しているのだろうか。
 というような難しいことを考えなくても、むかつくとかそういう気持ちをサポートしてくれるそれっぽい武器として法律を使っているだけの話なんだよな。その片にいい感じの角材が転がってたので、持って喧嘩しに行ったようなもの。なんかこの空き地、ええ感じの角材がいっぱいあるやん、って感じで法律を引っ張ってきているだけの話ですよね。
 啓蒙は、このご時世ではもう絶対できないと思う。何を考えているともいえない大衆たちは、そのまま気持ちよく言わせておくしかない。それほど能力的な絶望というものはあるし、連帯することによって自己正当化に磨きがかかってしまった。誰にだって無理だ。
 こうなっては、奴らがのさばること前提で、適当にごまかしながらいい目を見るしかない。どんどん汚い(とされる)ことをして、自分や自分の周りの人間が得するように工夫していけばいい。
 本当、能力のある人に見放されてもしかたがないようなことばかりをしていると思う。
 何もネットの住人ばかりがそうではない。テレビ局や飲食店のクレーマーや教育現場のモンスターペアレントがれき処理阻止部隊なども同じことだ。そういう僅少なプレイヤーばかりが目について、本当は大多数だといわれるサイレント・マジョリティを無視しているという話もあるが、いじめの傍観者みたいなもので、そんなものは汲まれなくてもよかろう。
 できる人はとっくに、厚顔無恥に、鉄面皮に、大衆の適当な意見を聞き流し、自分の利をとるのに障害となる世論をいなし、何の慮りもなく行動することだろう。
 よく「女」のイメージとか「男」のイメージとかで言うのと同じだ。「女の話はうわべでウンウン言って聞いていればいい」とか、女の傾向というものを主観的に捉えて束ねて、セオリー化するだろ。それは、個々の女が、男に対してした行動の、具体的な一回一回、それをされた側の男が少しずつ感じ取って、蓄積したセオリーだ。
 それは「大衆」というカテゴリに対しても当然働く。「またあんな無茶苦茶なことを言っている」「憂さ晴らし丸見えの著名人叩き」という行動の一回一回が集積し、「もうこいつらに善意は要らないな」というセオリーが生まれてもしょうがない。
 なあ。得する側に回らないと、けっこう苦労の多い生活になるから、回った方がいいよなあ。れびを。