住居の契約更新

 単発の小説の仕事を請けることになったので、文章の体操がてら書く。いやーそろそろまた住居の更新の時が迫ってきたわけだ。4年間が終わり、5年目に突入するというわけですな。何にも嬉しくないね。更新料という制度がマジで鬱陶しいが、さらに鬱陶しいのは保証人制度。まあこれについては家賃を滞納せずにちゃんと払えば、保証人には書類を書くコストしかかからないわけだが、自分以外の他人がどう動くかなど分からないものだから、保証人になることは相当のリスクになるでしょう。そらそうだわ。だからだいたいこういうのって身内か、会社の上司とかがやるわけですよね。もっとも、今日日は会社の関係がそこまで深いものになっているケースは減ってるだろうから、たいてい親とかになるわけですよね。はい出た親力の影響。マジでめんどくせえ。前回までは、普通に親力の庇護を受けて、親がやってくれたので、よかったわけだ。余計な費用が軽減された。ところが、今回はなんか親の方が渋ってきてるわけですよ。そりゃあリスクのある事柄なので、当然そうなるが、うーん。
 これ、まだ家族と見なせる? リスクがどうのとかいう観点が入ってくるのであれば、それって他人と変わんなくね? 俺視点では、別に精神的な支えになんか今では全くなってない、むしろいまだに昔の語調であーだこーだ言ってくるので電話するたびに消耗するし、資本もそれぞれ独立してるし、そういう契約上の保証関係も結べないということであれば、他人との関係と比べて何のアドバンテージがあるの? 人生というゲームのプレイヤーとして合理的に判断すれば、むしろ負の存在では? もっとも、俺も実家の方から何らかの保証人のようなことを求められたら、絶対に断るね。さきほど言ったように様々な関係が希薄だし、家計が火の車であることは知ってるから、リスク超でかいし。それは分不相応な持ち家を買うことを選択して、阪神淡路大震災以後で死ぬほど価格が下がって、もう数十年が過ぎた今でもローン残高より住宅の売却価格の方が安いという状況になっているせいだが。ほんまに不相応な選択だと思う。その意思決定の当時、俺はまだ年齢が1桁だが、もし今の俺が出張っていけるなら、絶対に反対したな。まあそれは未来の相場を知ってるからというのもあるから、たられば100%の領域だが、要するに資産さえ負なのよ。親力と呼べるものは完全にゼロ、あるいはあちらが生活に困窮した場合にこちらに扶養義務が一応あるという点ではむしろ潜在的にマイナスとなるわけだが。
 その辺のことを分かって俺に物言ってんのかな。分かってねえだろうな。俺の機嫌をとっといた方が賢明だと思うのだが、そんな発想もあるようには見えないし、実利は見当たらない。親子最後の砦、子供の頃からよき親として育ててくれたという思い出も完全に感じないぐらいの評価なわけだよなあ。むしろ俺の才能の一部はスポイルされたと考えてるほどだ。たぶん実家の環境に原因があるこれみたいな変な症候群も残ってるし。生育環境からの逆転度合いは相当な偏差値いってる自信がある。まあ、だからこその感想か。
 もう家の契約以外では依存関係が全くない状態にはしているが、ここも外したいとなれば、いよいよもって利がなくなる。保証会社を利用した契約に切り替えて、2年間で8万ほど追加で金を払うことになれば、もう切った方がいいかもな。親父の方はけっこうなマジキチなので、住所が知られているとそれだけで薄くリスクがあることだし。ただでさえ、実家に物理的にスペースがないので住めないから出ていってるという事情により発生してる家賃やら奨学金やらで貧乏な俺が、その貧乏たる由縁の家庭事情でさらに金を払うことになってどうするんだよ。それならいっそのこと俺が自分ですべての責任をもって何もかもをやった方がいいまである。もうそれでいいか? 家庭偏差値55らへん以上の人間ばかりを見てきたから高望みになってるのかなあ。保証だの扶養だの、親力が存在することが前提で設計されてる料金や社会形態の中で、それがないことがちょこちょこ邪魔してきて鬱陶しい。貧乏ゆえにさらに金を失うこと(家に援助するなど)を全力で回避してきたから、今回、創業のメンバーになって一発チャレンジすることができてるけど、これが道徳にしたがって援助などをして貯金が0ですってことになってたら、それもできないでずっと日銭稼ぎするしかなかったわけだよ。それを考えるとマジで恐ろしい。機会の喪失。貧乏は貧乏でなくなる機会も奪うよ。怖すぎるだろ。引きずられてはいけない。弱者のために作られた論理に縛られて、弱者を再生産してはいけない。そう思わないか?

ラブライブ2期の感想

 ラブライブ2期の一挙放送を観た。1期は観てない。ニコニコでたまたま今日、2期の一挙放送をやっていたから観ただけだ。1期を観ないと分からないところだらけというか、1期を観た人へのファンサービスだよという話を聞いて微妙な気持ちになった。内容は、最後にほのかが屋上から降りようとするシーンだけちょっとよかったが、後はそうでもなかった。
 やっぱ「スクールアイドル」というものが広く認知され存在している世界線を、この現世界にうまく溶けこませなかったことが、俺の敗因だった。そうなると「スクールアイドル」を魔法のように捉えるしかないが、その歪みを修正するために、どこまでも魔法になってしまい、足場がなくなってしまった。

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暮らし

 はたとブログを開いてみると、いつの間にか数ヶ月ほど更新していない。という状況がもう何回繰り返されたか分からない。前回の更新は楽園追放のネタバレで、それがもう2ヶ月前だということにまずファースト驚き。オートマティスムのやり方もいまいち覚えてない始末。のろのろとキーボードを打って、これじゃない感を獲得しているだけの朝。能力は退化しうる。
 正社員として初めて就職してからもう2ヶ月半が経とうとしている。過去の俺が想像しようとしてもできなかった光景だ。つくづく向いていないと感じられる。決まった時間に決まったことをするということが恐ろしく苦手で、別にそれは素質が関係するようなことでもないし、素質がなかったわけでもなかったと思うのだが、今までの人生で、決まった時間に決まったことをしてきた経験が少なすぎて、それに馴致してしまい、受け付けなくなってしまっているのではないかと危惧している。人間、歳をとれば性質が凝り固まる。怠惰な生活に甘んじていることを許された、何とかなってしまった20代を過ごしたせいで、慣れ切ってしまったような気がする。その性質自体は俺の思想的に忌むべきものではないが、不便である。自分のアイデンティティの一部が不便であるとのたまう。しかし人間の電気的反応はあまり連続的でないという考えを持っている俺からすれば、まあそののたまいも一理ある。人間はしょせん肉体の器を物理的になるべくいい状況に運ぶための装置であることに徹底していると思っており、それを大きくするために理性を搭載しているが、その理性が邪魔になるケースでは理性に基づかない行動を容赦なく割り込ませる仕組みもまた搭載しており、理性視点からすると連続性がなくカオスな振る舞いというものは簡単に生成されるのである。という話だがご理解いただけるだろうか。
 そんなことはどうでもよくって、日々の暮らしに疑問を抱きながら緩やかに絶えていく自分がつらい。これは横溢していた昔の精神の残滓の健気な抵抗のように思える。仕事というのはおしなべて面白くないものであるが、では仕事に割り当てられた時間のただなかにいる時、早く過ぎ去れ、と考えるのは、恐ろしい自己否定である。仕事中とはいえ、その時間は紛うことなく自分の人生の一部である。「お前、自分の人生が早く過ぎ去ってほしいと思っているのか?」と俺の中の俺が俺を問いただす。その問いに、俺は決まって曖昧な笑みを返すばかりだ。死に急いでいるのか。そんなわけはなく、ただ単に矛盾し、破綻している。
 出勤する。

楽園追放 ネタバレ感想

 ニコニコ動画の上の広告欄で、虚淵脚本の映画の公開記念舞台挨拶みたいなのの記事が上がってたので、虚淵やんけ!と思い、観に行こうかなと頭の片隅で思ったのが数日前。三連休やし、まあ観に行ってみるか、と新宿バルト9まで観に行ってきた。

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おかんとの会話

 おかんと久しぶりに電話したので内容をかいつまんで保存する。
 おかんは強皮症という、国の指定する難病に罹患していて、それ関連の医療費がタダになるらしい。しかしそれとは関係のない病気についての医療費はかかる。合併症との切り分けが難しそうやけど、どうやってんのと訊くと、基本的に認めず、こちらが問い詰めれば聞き入れることもある、という状態らしい。ほんま、人が政治する国やで。
 俺は小学校で転校を一度経験しているのだが、元の学校も転校先も、歩いて行けるほどの距離にある。よっておかんネットワークもいまだそっちに張られており、時折、情報が入ってくるらしい。そんで、その転校前の学校で同級生だった、エリックカートマンの頭を悪くしたみたいなやつのおかんが亡くなったらしい。そのおかんはよく知っている。DQNの権化みたいな人だった。むろん、会話したこともある。あの人が亡くなるとは、時間は流れたな、と思う。そのエリックカートマンは、当時「地蔵さん」というあだ名だった。かなり太っていたためだ。ありがたい名前とは裏腹に、地蔵さんもまたすごいDQNになっていった。当時、柔道部にはDQNが入るもの、という風潮がなぜか存在し、うちの中学と、同じ市の櫨谷(はぜたに)中、雲雀丘(ひばりがおか)中というところを除けば、ほとんどすべてDQNの巣窟と化していた。地蔵さんは柔道部に入り、重量級の強豪になっていった。俺もまた柔道部だったが、団体戦は体重順に並べられる風潮があり、俺は当時は痩せていたので中堅、地蔵さんは余裕の大将、個人戦では階級が違うので、戦ったことは一度もなかった。その地蔵さんは、柔道経験の流れから、今、整体師をやっているらしい。しかるべきところに収まっているなあ。
 弟の話をした。弟は今、小売で絶賛社畜をしている。日曜、月曜が休みだが、月曜の方には「自主参加」の研修があり、それに参加することはもちろん任意だが、参加しなければ、階級が上がらないらしい。すき家だかマクドナルドとかと同じ制度で、細かく無数に階級がある感じみたいだ。話を聞くだけで背筋が寒い。おかんが「うちの家系はほんま彼女できんわ」と言う。「俺ら以外に例えば?」と訊くと、叔父を挙げた。叔父はもう還暦を迎えてしばらく経つが、独身である。家系と出たのに、他の例は一人だけかい。しかし、よくもまあ、いけしゃあしゃあと言ったものだ。洒落ようにも、ブリーフ&トランクス「となりの柳橋」の歌詞よろしく「髪を染めたらあんたを殺してあたしも死ぬ」とか脅迫して、身だしなみへの興味の芽をハナっから摘んでいたのは誰なんや。これこそ家系だろう。「なるべくしてなる」の見本のようなものだと俺は思っている。転嫁するつもりはないが、電力会社と契約せず「なんでうちは電気通らんのやろな」と言ってるような呆れを感じる。まあ、指摘はせんが。
 こんなもんです。