劇場版 STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ 大いなるネタバレ含む感想

 シュタゲの映画。負荷領域のデジャヴ。盛大にネタバレしている。
 俺は悲しかった。いいところを挙げるならば、一つだけかもしれない。エンディング曲が良かったこと。
 悲しい。助手が可愛かったという前評判しか聞かなかったが、それも俺にとってはいいところではなかった。あざとすぎた。あまりに文学的すぎた。のっけからいきなり、運命の扉がどうのこうのとか独白してしまっていた。それだけでは別に悪くないが、のちに展開されるあまりにも文学的な性質には、どうにも辟易というか、俺が愛したクリスは、こういうクリスではなかったと思った。
 世界線を移動する話なのだから、それぞれの人物は、一切、人格が変容していったり、成長したりしないはずなのだが。ゲーム本編で見られたあの、普段は女性らしく振る舞いながらも、難解な話題とか問題が近くにあると、目の色を変えて興味を示し、すぐに解けないと躍起になって没頭し、周りのことがあまり目に入らなくなり、その様子を揶揄されると照れて怒り、やがて問題を解決したり理解したり解答を発展させたりするとドヤ顔をし、それをまた揶揄されると照れて怒ったり、拙く言い返したりするさまがクリスティーナの魅力ではなかったか。
 それにもかかわらず、言葉は悪いが、単なるツンデレ女に成り下がっていたように感じられた。そしてデフォルトでオカリンのことを好きであり、相克も何もなく、失われたものを取り戻すという構図をこなすだけの筋書きであった。
 そもそもシュタインズゲート世界線にようやくたどり着いたのに、その近くに存在するR世界線に逆戻りしてしまうという課題は、腑に落ちな過ぎた。似たような世界線は無数に束として近接しているというイメージであったはずだが、なぜ、他の残酷な運命を奇跡的に回避した、ほとんど唯一といっていいらしいシュタインズゲート世界線の近くに、そんな恐るべき世界線が存在しているのだろうか。しかも、シュタインズゲート世界線でもクリスはタイムマシンもタイムリープマシンも作成してしまっている。それは本当に理想郷のような世界線といっていいのか。原作の前提をも崩し、あの絶望的な苦難苦節は、やはり報われない、ダメな世界線にしか到達できなかったということを意味しないか。
 だって、オカリンに「ここは大丈夫な世界線なんだ」と思わせるためにクリスが施した処置が、まゆしぃを探し求めていた過去のオカリンに、バス停で、なんかよくわからん講釈をちょっとだけ垂れて、キスするというのは、何が何だかわからない。P氏いわく「とんだビッチ」である。
 シュタゲで俺が最も絶望的であり好きである部分は、オカリンが別の世界線に移動することで放棄した世界線は、ただオカリンと共に、画面の向こうの俺らも移動して、放映されなくなるだけで、依然として存続し続けるという点だ。千代田線でマジキチお嬢ちゃんに突き飛ばされてまゆしぃがグロくなった世界線も、鬼畜SERNにフラクタル化されてゲルしぃにされてしまった世界線も、ウワーッてなってオカリンがヘッドホンバリバリやったところで、どっかの世界線として存在しているのである。そんな悲しいことが許されていいのだろうか。
 オカリンの目的が、そんなクソクソな結末の中に身を置きたくなく、みんな健在で、未来ガジェット研究所で楽しくやりたい、ということであれば、話は非常に明快であるのだが、どうやらそうでもない。この映画でも、あるいはゲーム本編でもそうであったような気がする。
 映画は決定的で、クリスとまゆしぃが健在であるならばそれでよく、自分は消えてしまっても構わない、お前らは過去に戻って成功するまでのトライアンドエラーはするな、と言って消える。これは、オカリンの目的が、ユートピアへの到達ではなかった、あるいは、ユートピアを追い求めてもユートピアにはたどり着けず、ユートピアを追い求めていた主体の自分がぶっ壊れて結局到達した意味がないから追い求めるべきではないと悟り目的が変容したことを示していると思う。が、だいたいまゆりやクリスを救いたいっつったって、他の世界線ではバンバン死にまくってるんだから、移動したってもともと意味がない。悲しい世界線の存在が確認された時点で、既に悲しいはずだ。オカリンは、幸せな世界線に到達して、他の世界線へ思いを馳せることをやめるか、悲しい世界線をぜんぶ削除するぐらいのことをしなければいかんのだ。
 まあそこまで言わなくてもよいかもしれない。オカリンだって人間だから、一つの信念にのみ基づいて行動しているわけではなく、ぶれながら、その時々の強い感情で、矛盾する行動をとったり、矛盾する心理になったりするんだ、と擁護することもできる。目的が変容した説でも、別にいい。理想的な世界線の中に身を置きたいと思ってたが、それは無理ゲーだ、やんない方がいい、と宗旨替えしたという解釈もできる。
 しかしながら、そうだとすると、そういう物語を観たことになってしまうわけだ。ブレた男の物語。別にいいのだが。いや、よくない。俺がブレてしまった。大槻ケンヂ先生か。茶化しが過ぎるか。
 結局ブレた男の物語であれば、俺は悲しいという結論になる。
 だってやっぱり、棄ててきた世界線が、俄然、バリバリ存在してるっていうのがどうしようもない。消し去る方向で頑張るってのはどうだ。シュタインズゲートに到達したが、棄てられた世界線の亡霊が浸食してくるので、すべての悲劇の元を断つための過去への旅をするというのは。これがすべての救済にはならないか。筋書きを進言してもしょうがないか。
 街を歩いてる最中に、登場人物の股間のアップが10秒ぐらい続くというのもどうだ。フェティシズムに訴えかける京アニの手法じゃないんだから、と思って俺は一瞬顔を背けてしまった。気恥ずかしくなってしまった。助手のシャワーシーンも、まあいい……のだろうか? あざとさを感じないように努めたが、努めた時点で幸せにはならなかった。未来から来た鈴羽の動機も弱かった。でもありゃ出てこないとダメだもんなあ、鈴羽。苦しかったように思う。
 クリスがどこかで言っていた。「橋田とまゆりとの三人だけじゃ寂しい」みたいなことを。他のラボメンとは何だったのかと、その瞬間は思った。なんか、それぞれがかけがえなく思っている総体が、それぞれで違うんだよな。それはまあ、いいか。
 感動しなかった。叩きたいという気持ちは特にないが、ただただ悲しい。それほど悲しむこともないか。テクスト論的に、原作を独立のものとして、心に持ち続けていれば、何も悲しむ必要などないのだろう。そうだな。悲しくなどない。俺は悲しくなんてない。あるわけがない。