相談について

 何かを他人に相談する時、そいつは何かを求めている。何かとは? 人によると思うが、俺の場合は「相場」だ。例えば、Aという仕事、Bという仕事がありまして、そのどちらが得なんですかねえ、と人に相談する時、それはAという仕事が属している分野の相場はどれくらいで、Aはその相場に比べてどれくらい優れたり劣ったりしているのか、であるとか、Bという仕事の知られざる実態があって、実は見た目より条件が悪かったりする可能性は高いのかとか、そういうことを知識として持っていないので、それを聞きたい、あるいは、それを知っている人が下す判断を聞きたい、という目的である。それさえ聞き出せば、あとはそれを自分の天秤に乗せるだけである。

ノレン

 nothing, really. なんでもない。酒を飲むと確率でいろいろな状態になる。陽気な気分になったり、眠くなったり、歌いたくなったり、気持ちが悪くなったりする。今日はファンブルなのかクリティカルなのか、ダウナーなやつが出た。気分が滅入る。文章に落としこむことで、なんでもないことのように感じられるようになるのが、良い。なんだかやけに、気分が滅入る。酒癖が悪いのだろうか。それとも他のことが起因しているのだろうか。どうにもならん。別に何か具体的な嫌なことがあったわけではなく、おそらくは漠然と、現在や過去や未来という3バカにうんざりしているのだろう。例えば先日言っていた、不動産屋やら更新料の件。実は、いまだに紛糾していたのだ。ひとつ簡単な返事をするだけのために数週間も間を置く。クライアントをホールドしておく時間はなるべく短い方がいいのは分かりきったことだ。手前の仕事が増えるだけだ。それがようやっと金を払わせていただいて落ち着いた。やっと解放されるのである。そこで湧いてくるのは、俺はこんなやつが所属する組織を富ませるために金を払わなならんのかという疑問である。いかにも飛躍した話だが、相当にアホらしい。これからの人生、別に何があるわけでもなく、守るべきものもなく、ただただ、労働の代価にいくばくかの賃金を得て、それをパチンコ屋や不動産屋や焼肉屋やコンビニに、左から右へと横流しし、その濾過器として享楽や栄養素をこし取り、消費し、いったいそれが何だというのか。ある煩悶は、その持ち主がいるから煩悶なのだ。不動産屋の下っ端の不手際ひとつで考え過ぎだという向きもあるかもしれない。別にそれがきっかけではない。どこまで遡っても、別に何もないのである。プレイヤーとして、この現し世では利得を基準にいろいろな行動をとっているし、これからもとっていくが、それが何だというのか。なんでもないじゃないか。俺こそが一番大切なはずなのに、別に何もないのが問題だ。参った。根拠がない。自分の人生に根拠がない。他の人のことは知らない。今おれの人生にゃノレンがねえ、と歌ったのは般若だったか。わちゃわちゃして、それがどうかしたのか。他の人の営みもどうせ無価値だとか、どうせ100年後にはみんな溶けてひとつになってしまうとか、そういう煽りはどうもできない。他人のことなんてなんにも分かりませんもの。俺にとって無価値かどうかさえ分からんよ。全然分からん。抑圧されているのではないから、どうなったらいいのかも分からん。いやダウナーだね。さすがに。でも、日増しに強まっていく考えなのよ。三大欲求だけ満たしときゃいいんすかね。うーん、眠くなってきた。

カルビ

 カルビ。大いなるカルビ。カルビを食いたい。カルビというのはどこの部位なの? カルビを食べた人いますか? カルビといっしょ。カルビがいつも隣にある生活。カルビの消失。カルビ、お前は今、笑っているか。カルビの五重奏。カビル。カルビ食いたいね。牛角でよい。牛角カルビでよい。安安はさすがにちょっとアレだが、牛角食いたい。というより牛角のタレで肉を食いたい。と言った方が正確かもしれない。自分の家でやる焼肉はなぜかそれほど美味くない。なんでや?
 上手い判断をしたいね。後から、あれはああするべきではなかったな、と思うことが多々ある。誰しも多々あるでしょうね。すべての行動の決定に100年ぐらいの猶予があれば、正確な判断ができる気がする。正確というか、後悔しない判断ができる気がする。いや、自分が今、頭の中で飼っている意思決定チームの思考を正確に反映した判断を世に送り出せる気がする。それは上手い判断なのか? まずまず上手い。頭の中の意思決定チームは、俺オリジンではないので、信頼できる。俺オリジンは、ちょっとね……。決定打に欠ける。というか、俺オリジンは、俺の脳内というだけで、その意思決定チームを包む場の雰囲気として存在しているので、わざわざ議員として動員しなくてもいいという感じだ。これ、喩えを把握できないと怪文書じゃない? なんだよチームとか議員とか。哲学書とかこんなノリだよね。
 人間の寿命が一万年ぐらいだったらどうなるのか、ちょっと知りたくない? 今までに誰もまだやってないことだぜ。飽きるんかなあ。地獄のように思えるのかな。どう思うんやろ。俺はあんまり変わらん生活をしてそうやけどそんなこともないのかな。考え方って時代によってメッチャ変わると思うけど、一万年の中で、パラダイムシフトについていけなくなる時がいつかやってくるのかな。やっぱり平成初期が最高やった! とか6000年目ぐらいで思ったりするんかな。無限に年金もらえるから超得やな。日本がそれまで存在するのか怪しいけど。でも年金なんか貰わんかっても、知識でなんぼでも食っていけそうな気はするね。でも記憶容量の限界がやってくるのかな。それともものすごい効率的な記憶体系が脳に構築されて、全然変わらずに記憶を貯めこんでいけるのかな。そんな目に遭ったことないから、脳自身にもどこまでできるか分からんよな。淘汰の競技に入ってない。脳の方も150年目ぐらいに「ちょっと長くない?」ってなってくるかもしれん。バグったら嫌だな。せっかく一万年もあるのに、もう150年目でバグって、あとはアウアウアー言うてるだけで終わる。なんや夢のない。

冷たい熱帯魚 感想

 ぷりっぷりのおしりさんの勧めで、冷たい熱帯魚というアニメ……じゃねえや、映画を観ました。就業後に一本アニメ……じゃねえや、映画を観るってのもなかなか乙ですな。なんでか知らんが、アニメって言ってしまう。

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転職したよ

 前の月曜から転職したよ。株式会社ウォッチゲームズというベンチャーだよ。月給18万なのでキツいけど、ストレスがなくてよい。気が向いた時間にチャリでサーッと出勤して、風呂に入ったり昼寝したりしながらゲームを開発しているよ。やっぱ人生これくらいじゃないと、生きた心地がしませんね。決まった時間に電車を乗り継いでどっか行くのが一番ストレスっすね。あと、やることがないのに出勤時間だからといって無駄に居続けたりするのも馬鹿らしかった。今のところは完全に裁量労働制なので、いま自分にやるべきことがない場合は帰ったり遊んだりできて良い。給料少なくてもこれくらいの方が性に合う。具体的な金も欲しいが、それはトレードオフだから個人の内面の摩擦係数がそれぞれいかほどであるのかがミソですな。俺はやっぱダラダラ主義なので、この方が幸福度高い。ワンチャン一攫千金のドリームつき。こういう記事を見ていると、なおのことそう思うね。ユニコーンの大迷惑、お金なんかはちょっとでいいのだ〜ってことですな。まあ奥田民生はちょっとのお金じゃないですけどね。

SHIROBAKO感想

 SHIROBAKOの一挙放送をニコニコ動画で観た。全24話、超長い。なので、ニコニコでも1〜12、13〜24話に分けての2日がかりの放送になった。面白いという話は前からTwitterなんかでかなり聞いていたので、まあ観てみるかっていう気持ちで、土日の夜を押さえていた。しかし舞台がアニメ制作の現場ということで、他のゲームとかマンガの制作現場を題材にした作品、エロゲの「らくえん」とか、漫画の「バクマン」とかみたいなノリだろうと思って、そんなに期待していなかった。それらの作品から、そこまでの感動を得た覚えがなかったため。それらは、まあ面白いは面白いけど、もう飲み切ったと思ってたコーラがまだ冷蔵庫に一本残ってたような、それくらいの快感は得られるが、「こんなうまいもの食ったことねえ!」というほどではない。というぐらいで、わざわざ時間を割こうかなっていう気は起こらないぐらいの前哨だった。

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続・住居の契約更新

 先日書いた賃貸の連帯保証人の件は、残念ながらできないという返答であった。非常に残念だ。保証会社を介して契約しなくてはならないのは痛い。もちろんそれも痛いが、それ以上に、肉親を喪失したことが悲しい。これまで、親とはかろうじて弱い繋がりのもとにあったと思うのだが、断絶に至ってしまったような気がする。俺はその旨のメールを受けて、「分かりました。これまで保証していただいて、ありがとうございました。」と返答した。攻撃的な感情をできる限り引っ込めたギリギリの文である。もちろん、これでも慇懃無礼であり、向こうもさすがにそう受け取るだろう。しかし、完全に合理的プレイヤーとして振る舞うことは最善でないと判断した。もし合理的に返答するのであれば「そっかー、まあしょうがないよね。了解、ありがとう〜」ぐらいがベストだと思う。こちらが今回の対応を不満だと感じていることをアピールすることで、今後、向こうが交渉を持ちかけてきた時に、「前にそちらはこういう対応をしたよね。受けられません」と突っぱねることが容易になるカードを得ることもできるが、必須ではないし、何より、精神的な安定を得るために、ベストと思われる選択を外す必要があった。このベストの、向こうの印象のみを操作するために、こちらが感情を抜きにして振る舞うというのは、突き詰めると圧迫面接にも常に笑顔で対応する就活生の道を歩むことに繋がる。やはり完全にポーンとして行動することは難しい。ポーンとして可能な行動の一貫は、イデアである。完全な球体を想像することはできるが、この世には存在しないだろう。受肉し、人類としての基本的機能にしたがってパラ振りされている身としては、感情を排した合理的行動は、イデアである。俺も、こんなクソ長い文を書かざるを得ないぐらいには、感情的だ。
 それでも比較的、おだやかな文章にしたつもりだ。最初に打ち込んだ返答は「了解しました。その決断は、そちらからの信頼がないということだと思うので、今後、こういった類いの信頼関係は一切ないという前提で考えるようにしましょう。今までありがとうございました。」というような感じだった。心はもう完全に離れている。そりゃそうだろう。別に金をくれといっているわけではない。よく知らないが経済学的には(債務*俺が支払いをできないかしない可能性)ぐらいの金銭的損失に値するのかもしれん。が、それは要は(俺が支払いをできないかしない可能性)を0と信じていない、もしくは、それを嫌だと判断したということだ。もっといえば、(俺が支払いをできなかったかしなかった)が発生したとしても、その責任を負う気はないと表明したということだ。俺は一度、実家からの援助要請を断っている。そして最近になって仕事を辞めたことも言っている。それが効いたのだろう。しかし、仕事を辞めるのは、これから創業に参加するためだとも言った。それを知っていても、金をくれと言っているわけではない話でも蹴る。直接的な無心と同等にその責任は重いという考え方もあるだろう。無論、連帯保証人という立場は、金融であれば、借主と同等の債務を負うことも知っている。返済が滞納していなくても、連帯保証人へ先に請求してもよいほどだという。重い役割だ。ただ、それは他人との間のロジックだ。俺がリスクの塊である実家を見限らず、マジキチ親父に知られる覚悟を押しても連絡先を教えてきたのは、家族幸福量総和ロジックに基づいて母が行動していたからだ。家族の中で損得の総和が最小の選択をする。例えば、俺が面倒だからといって、本来もう一回り小さい梱包で済む荷物を、大きな梱包にして宅配便を送ると、余計な料金を払っていることを我がことのように惜しむ。ただのしみったれたケチな精神だが、その適用範囲が家族全体に及んでいるから、信頼があるし、それが適用されていることが分かりやすかった。だが、今回の話で、俺が忠実である限りは、連帯保証人を請けてくれた方が安上がりになるから、母なら確実に請けてくれるはずである。でもそうはならなかった。これは、2年前と違い、弟が実家の家計の中心になったという事情があるのは分かる。弟との協議の結果、その責任は取れないということになったのである。これまでのウチのロジックから、俺は外れたということである。そりゃあ、母としては、自分で責任を取れない債務を、家計を担う者に問い合わせるのは当然だ。だがそこには天秤があったはずだ。俺は信用に値しないという判断があったはずだ。俺が余計に約一ヶ月分の家賃を払うことになっても、しょうがないという判断だ。
 有り体に言えば、そんな階級になったことが確認できる共同体については、もはや所属するメリットよりもデメリットの方が大きく感じられた。地理的に離れていれば、どんな関係性も、希薄になるような重力をどうしても受ける。それがとうとう顕現化したという感触だ。一事をとって大げさであるとか、俺の判断があまりにも利己的で独善的であるとか、責任の過小評価だとか、様々な弁護が考えられる。が、それでもやはりこの事実は、俺があまり分析せず、アナログなままにしておいた、家族という関係性を、大きく損なうものであると考えざるを得ない。俺をして、そう思わせるような、見えない断絶があるように思う。残念だ。親について、軽い生前葬が行なわれているような気持ちだ。これが一過性の、通告の直後であるがゆえの、落ち着きを欠いた判断である可能性はある。だからこそ、返信の文面は、努めて平穏なものにしておいた。でも、これが覆る気は到底しない。プレイヤーとして徹するなら、このまま表面上は温和に対応し、実利に関わる案件はすべて実利を取るように対応する、という戦略を取るべきである。明確な断絶はむしろ相手を刺激するので損になる。そういう静かな訣別をしようかと考えている。必要なのは俺の決心だけである。たかが数万円ごときで大げさだと、直感的にも思うが、ではなぜ、こと家族との関係に比べて、その数万円が「大げさ」という表現になるのだろうか、と考えれば、無論、その関係が、それよりも重大な事柄だからだ。では、それは本当にそうなのか? という疑問に、俺は明確に、そうだ、と答える根拠を見失っているということだ。探しても、見つからないのだ。かろうじて、なんとなく、そういうもんだろう、人間として、というようなフレーズが去来するのみだ。もし、俺の家族の価値を支えるものが、そのフレーズで表されるものしかないのだったら、果たしてそれは、数万円より重要なのか? と思うに至ったのである。絶対的価値ではなく、相対的価値として。今後の判断が変容するかは、分からないが、今の心境としてはこんな感じだった。
 というような感じで、余計な思考リソースまでも使わされるわけだ。本当に恐ろしいだろう、貧乏は。裕福だったら、少なくともこの問題は起きなかったわけだぜ。