2日目

 おはようございます。今日も饒舌で行こうと思いますが昨日、友人と話していた際に指摘されたことですがやっぱり昨日の記事は思ったほど冗長ではなかったということ。あの記事の中でも言ったがそうならないようにしようと意識的であったのにも関わらず今一つだった。これはノリが悪いからというか何かを書くことについてスケールが小ぢんまりとしてしまっているのかもしれないなあ。深さを追求できていないせいでは、との指摘もあった。それはやはり俺の知識があらゆる方面で不足していることの証左であり掘り下げられないということも起因している。寝起きに物を書くと明らかにオートマティスムが滞りがちになる。ちょうどネットの回線速度を計測するサイトに行った時、ページを開いてからしばらくしてから計測開始ボタンを押さないと極端に遅い速度が出るというのに似ている。
 とか何とか言っているうちに2時間ほどが経過した。麻雀などに興じていた。昨日の成績は本当にひどかった。ハンゲームで70万も負けた。70万って一年半ほど在学できますが。ハンゲでこのような仮想マネーのやり取りをしているうちに金銭感覚が著しく損なわれて闇金融などに手を出し生活が破綻してしまった人って居るのだろうか。ひぐらしをプレイして人殺しがしたくなったりエロゲーをやって監禁がしたくなった人は居るということになっているが、クロスチャンネルをプレイして量子力学を志した人は居ないのだろうか? 居たとしても家宅捜索されないから分からないですね。ネガティブキャンペーンしかやらないもんな。そういうものが人々の関心を寄せるので需要と供給の市場原則に応じて報道はそういうところに方向付けられる。これも昨日の会話で俎上に載ったが、一番悪いのはマスコミではなく人民であるという説。お前らがそんなものを好きだからそんなものが供給されるんだよっていう当たり前の話。週刊誌だって売れなければ発行されないわけで、諸悪の根源は一般人であるということになるのだが言っても詮無きことだ。具体的な手の着けようがないから叩きやすいマスコミに矛先が向かう。マスコミっつってもバラエティ作ってる人とニュース作ってる人は全く違うわけで一緒くたにしてボロカス言われてはたまらない。っていうか意味がない。なんかあんまり新規性のない話ですね。
 みんなそれぞれユートピアみたいなものを持っているのではないかという話をした。小説やアニメなどに触れて感動するのはそれぞれの考え方を面白く鮮烈な方法で実現してくれるフィクションだという話で、例えばエヴァなんかは分かりやすいが「世界のみんなが一つになればややこしいことも何もないよね」という結論を提示されて「はいはいはいはいはいそうそうそう、これいいわ」と共感してすげーなエヴァ、となり感動を覚えるというプロセス。別に人類補完計画に限定したことではなくて自分の持つ考え方や理想に沿ったものに対してなら何でもいいしそこが個人差だと思うのだが。小林とは論を俟たずに作品とそういう接し方をしているよねと確認し合ったのだが、そうでない人もそりゃ居るよなあ。こうやって文章にしてみるとますますそう思える。文章がうますぎて感動する人も居れば構成や技巧にのみ感動を覚える人も、居て当然だよね。俺はいつも「〜〜だ」が正当かどうかを調べるために、「〜〜でない」の極端な例を想像して、ああそれが存在し得るなら、「〜〜だ」と「〜〜でない」のとの中間も当然あるよな、という風に考えるのだが、何にも感じない人が居るように別のものを感じない人も居るだろうよ。ちょっとまとまんないね。
 そろそろ学校なので行ってくる。